河内の苟氏

左曹水衡都尉河内苟參威神
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、陽朔三年)


前漢成帝の時の水衡都尉に河内の苟参なる者がいた。

(王)翁孺生禁、字稚君。少學法律長安、為廷尉史。
本始三年、生女政君、即元后也。
禁有大志、不修廉隅、好酒色、多取傍妻、凡有四女八男。長女君俠、次即元后政君、次君力、次君弟。長男鳳孝卿、次曼元卿、譚子元、崇少子、商子夏、立子叔、根稚卿、逢時季卿。唯鳳・崇與元后政君同母。母、適妻、魏郡李氏女也。後以妒去、更嫁為河内苟賓妻。
・・・(中略)・・・
太后母李親、苟氏妻、生一男名參、寡居。頃侯禁在時、太后令禁還李親。太后憐參、欲以田蚡為比而封之。上曰「封田氏、非正也。」以參為侍中水衡都尉。
(『漢書』巻九十八、元后伝)

この苟参なる人物は成帝の母である皇太后王氏(元后。王莽の伯母)の実母李氏が産んだ子。つまり皇太后王氏・大将軍王鳳の異父弟である。




何でこんな事言うかというと、先日の記事(荀か苟か - てぃーえすのメモ帳)に出てきた「河内の荀緯/苟緯」について、河内郡で苟参らの「苟氏」が外戚の威光で栄えたかもしれず、後漢末・三国時代のこの人物も「苟氏」と言う可能性がけっこう高いのではないか、と思ったからである。


無論、間違いなくそうだ、とまで言えるような話ではない。