左輔都尉

黄龍元年、(孫)權稱尊號、立為皇太子、以(諸葛)恪為左輔、(張)休右弼、(顧)譚為輔正、(陳)表為翼正都尉、是為四友。
(『三国志』巻五十九、孫登伝)

諸葛恪字元遜、瑾長子也。少知名。弱冠拝騎都尉、與顧譚・張休等侍太子登講論道藝、並為賓友。從中庶子轉為左輔都尉
(『三国志』巻六十四、諸葛恪伝)


かのロバの子諸葛恪は、呉の皇太子孫登の「左輔都尉」になったという。


皇太子を輔弼する役割という事なのだろう。なぜ都尉なのかというのは不思議な気もするが。



左馮翊、故秦内史、高帝元年屬塞國、二年更名河上郡、九年罷、復為内史。武帝建元六年分為左内史、太初元年更名左馮翊。戸二十三萬五千一百一、口九十一萬七千八百二十二。縣二十四。
高陵。左輔都尉治。莽曰千春。
(『漢書』巻二十八上、地理志上、左馮翊)


しかし、漢代には全く同じ「左輔都尉」という官名が、「首都圏の郡の一つ「左馮翊」における都尉」として使われている。



王朝が違う事になるとはいえ、全く同名で全く違う職務というのは混乱を生じないものなのだろうか。興味深い話かもしれない。