所管がえ

王脩字叔治、北海營陵人也。
(『三国志』巻十一、王修伝)


三国時代の王修の出身營陵県は北海郡であった。

王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、為文帝司馬。
(『晋書』巻八十八、孝友伝、王裒)


だがその孫の王裒は城陽郡の營陵県の人であったとされている。



どうやら王裒の頃には營陵県は北海郡から城陽郡に移管されたようだ。


東莞郡、太康中置。統縣八、戸一萬。
東莞、故魯鄆邑。
朱虛
營陵、尚父呂望所封。
安丘、故莒渠丘父封邑。

臨朐、有海水祠。


(『晋書』巻十五、地理志下、徐州、東莞郡)

しかし『晋書』地理志では營陵県は徐州東莞郡の所属となっている。




つまり營陵県は北海郡→城陽郡→東莞郡と所管が変わったらしい。




王修と王裒はそれぞれ本人の時代の所管で書かれているのだろう。逆に言えば、郡県の変遷に合わせて出身の名乗りも変わっていくのが普通なのだろう。


実際そうしないとどこの人か良く分からなくなるし。





なので、成紀県が漢陽(天水)郡所管になっても「隴西成紀」と称し続けているのは、一歩引いた眼で見ると異様な光景なのではないだろうか。