辛と幸

中郎將幸成子淵為水衡都尉。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始二年)

(辛)慶忌居處恭儉、食飲被服尤節約、然性好輿馬、號為鮮明、唯是為奢。為國虎臣、遭世承平、匈奴・西域親附、敬其威信。年老卒官。
長子通為護羌校尉、中子遵函谷關都尉、少子茂水衡都尉出為郡守、皆有將帥之風。宗族支屬至二千石者十餘人。
元始中、安漢公王莽秉政、見慶忌本大將軍鳳所成、三子皆能、欲親厚之。是時莽方立威柄、用甄豐・甄邯以自助、豐・邯新貴、威震朝廷。水衡都尉茂自見名臣子孫、兄弟並列、不甚詘事両甄。時平帝幼、外家衛氏不得在京師、而護羌校尉通長子次兄素與帝從舅衛子伯相善、兩人倶游俠、賓客甚盛。
及呂寬事起、莽誅衛氏。両甄搆言諸辛陰與衞子伯為心腹、有背恩不説安漢公之謀。於是司直陳崇舉奏其宗親隴西辛興等侵陵百姓、威行州郡。莽遂按通父子・遵・茂兄弟及南郡太守辛伯等、皆誅殺之。辛氏繇是廢。
(『漢書』巻六十九、辛慶忌伝)

前漢末、王莽時代の水衡都尉に「幸成」なる人物がいたとされている。



だがこの時期の水衡都尉として、将軍辛慶忌の子供の一人「辛茂」がいたとされている。





つまり、「幸成」というのは「辛茂」の事なのだろう。


「辛」は「幸」に誤伝され、「茂」は「成」に誤伝されたと思われる。




「辛」が「幸」と誤って伝わる事例というのが実際にあるようだ。