王莽時代の交阯太守

初、平帝時、漢中錫光為交阯太守、教導民夷、漸以禮義、化聲侔於延。王莽末、閉境拒守。建武初、遣使貢獻、封鹽水侯。
(『後漢書』列伝第六十六、循吏列伝、任延)

魏興郡、本漢中西城縣。哀平之世、縣民錫光、字長冲、為交州刺史、徙交阯太守。王莽簒位、拒郡不附。莽方有事海内、未以為意。尋値所在兵起、遂自守。更始即位、正其本官。世祖嘉其忠節、徴拝為大將軍朝侯祭酒、封鹽水侯。
(『華陽国志』巻二、漢中志、魏興郡)


前漢末から王莽時代を経て後漢初期までの交阯太守錫光は漢中郡の西城県出身で、字は「長冲」と言ったらしい。この字は『後漢書』等には載っていないようだ。



この話の通りなら、20年は交阯郡を統治し続けていたことになる。混乱の時代の辺境とはいえ、なかなかの長さである。実質的には独立した君主みたいなものだ。



彼が現地民の中に漢風の農耕、婚姻制度や学問などを教化したのだ、と言われているらしい。中国側から見れば交州発展の立役者の一人なのだろう。