2022-03-01から1ヶ月間の記事一覧

3月末、いろいろあって疲れて眠い。 4月になってからお会いしましょう。

旧徳

建武中、録舊徳臣、以(孫)寶孫伉為諸長。 (『漢書』巻七十七、孫宝伝) 前漢の孫宝の孫は、後漢初期に孫宝の「旧徳」によって官に取り立てられたらしい。 「旧徳」は、他の用例を見るとどうやら何か恩があったようなことを示すことが多いような気がする。…

謝と射

三輔決録注曰、(射)援字文雄、扶風人也。其先本姓謝、與北地諸謝同族。始祖謝服為將軍出征、天子以謝服非令名、改為射、子孫氏焉。兄堅、字文固、少有美名、辟公府為黄門侍郎。獻帝之初、三輔饑亂、堅去官、與弟援南入蜀依劉璋、璋以堅為長史。劉備代璋、…

射と謝

孫休字子烈、(孫)權第六子。年十三、從中書郎射慈・郎中盛沖受學。 (『三国志』巻四十八、孫休伝) 傅相謝慈等諫(孫)奮、奮殺之。 【注】 慈字孝宗、彭城人、見禮論、撰喪服圖及變除行於世。 (『三国志』巻五十九、孫奮伝) 喪服要記一卷、蜀丞相蔣琬…

ひとこと

呉の孫休の皇后朱氏と、孫休の皇太子(孫𩅦)は、たぶん実の親子じゃないな・・・。 『三国志』孫休朱夫人伝に子を産んだことが特に書かれてないし・・・。 だから孫晧の即位に強く反対したりしなかったんじゃないかな・・・。

トラになった私

至紂之時、理徴字徳靈、為翼隸中呉伯、以直道不容於紂、得罪而死。其妻陳國契和氏與子利貞逃難於伊侯之墟、食木子得全、遂改理為李氏。 (『新唐書』巻七十上、宗室世系表上) 昨日の記事だけど、「理氏」が「李氏」に改姓するきっかけとなった人物、「理徴…

理氏

李氏出自嬴姓。帝顓頊高陽氏生大業、大業生女華、女華生皋陶、字庭堅、為堯大理。生益、益生恩成、歴虞・夏・商、世為大理、以官命族為理氏。至紂之時、理徴字徳靈、為翼隸中呉伯、以直道不容於紂、得罪而死。其妻陳國契和氏與子利貞逃難於伊侯之墟、食木子…

成紀出身の有名人

帝王世記曰「庖犧氏生於成紀。」 (『続漢書』志第二十三、郡国志五、涼州、漢陽郡、成紀、注引『帝王世記』) あの李広・李陵や李徴(トラ)なんかの隴西(漢陽)成紀の李氏の本貫である、漢陽郡成紀県は、あの「庖犧」(伏犠)が生まれた地だとされている…

本日は

恒例年度末なので、ここまで。頭が働かないんですよ。 年度末が終わったらまた会いましょう。

敦煌郡のなりたち

又遣浮沮將軍公孫賀出九原、匈河將軍趙破奴出令居、皆二千餘里、不見虜而還。 乃分武威・酒泉地置張掖・敦煌郡、徙民以實之。 (『漢書』巻六、武帝紀、元鼎六年秋) 河西の敦煌郡あたりは、なりたちからして漢の武帝が匈奴を下すか追い払うかしたところに民…

辺境から内地へ

論功當封、(張)奐不事宦官、故賞遂不行、唯賜錢二十萬、除家一人為郎。並辭不受、而願徙屬弘農華陰。舊制邊人不得内移、唯奐因功特聽、故始為弘農人焉。 (『後漢書』列伝第五十五、張奐伝) 敦煌郡淵泉の人張奐の子孫張芝らが「弘農の人」とされるのは、…

霊帝の趣味

至靈帝好書、世多能者。 (『三国志』巻一、武帝紀注引衛恆『四體書勢序』) 後漢霊帝は書(書道)を好んだという話があるのか。それで後漢末に書をよくする者が多く出現したと。て

2日目

徹夜から2日後、一度寝てはいるけれどまだ結構眠い。 なのでまた今日も寝ることにする。

昨日は諸般の事情からほとんど寝ていない。 なので今日は寝る。おやすみ。

太皇帝

(黄初元年十一月)追尊皇祖太王曰太皇帝、考武王曰武皇帝、尊王太后曰皇太后。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年) 曹丕は祖父に当たる曹嵩を「太王」とし、皇帝になってから「太皇帝」とした。 父は「武王」から「武皇帝」としており、「武」は諡号とい…

折り返し

正念場の3月も折り返し地点。 これから後半みたいなものか。 とりあえず今日は英気を養う(訳:寝る)。

尹か帝国

前漢の都長安のある京兆尹、後漢の都洛陽のある河南尹。 用河内張烱之符命、遂僭號、以九江太守為淮南尹。 (『三国志』巻六、袁術伝) また、袁術も皇帝を称する時にどうやら本拠を「淮南尹」としたらしい。 つまり、皇帝の定住する都は「尹」とされるのが…

2つの高陵

諡曰武王。二月丁卯、葬高陵。 (『三国志』巻一、武帝紀) 呉録曰、尊(孫)堅廟曰始祖、墓曰高陵。 (『三国志』巻四十六、孫堅伝注引『呉録』) 曹操と孫堅の墓はどちらも「高陵」といったのか。もちろん同じ場所に葬られたわけではない。 諡号も「武皇帝…

小泉

王莽時代の銭「小泉直一」は「日本人の人名に思えるけど全く意味の違う言葉」ランキング1位じゃないかと思う。

あの日

そうか、この日は11年前に携帯の電池が切れ、そもそも電気が使えず、安否も投稿できなかった日か。 あんときは大変だったが、もっと大変な目に遇った人たちに比べれば些細なことか・・・。

義作

(赤烏十年)三月、改作太初宮、諸將及州郡皆義作。 (『三国志』巻四十七、呉主伝、赤烏十年) ここの「義作」ってあまり見かけない語のような気がするが、「無償での労役」ってことでいいのかな。 宮殿造営のために諸将と州郡に労働させた、ということか。…

11

そうか、あの時からもう11年も経過するのか・・・。 思えばずいぶん遠くへ来たもんだ。

ひとこと

超大国ともなると、小国を攻めて苦戦しているというだけでもガンガン威信が削られて面目が無くなっていくんだなあ・・・、と実感。 敗残の劉備を攻めたのに勝てずに逃げ帰ってきた曹操なんかは、そりゃあもう威信がめちゃくちゃになったんだろうな・・・と思…

晋興郡

永寧中、張軌為涼州刺史、鎮武威、上表請合秦雍流移人於姑臧西北、置武興郡、統武興・大城・烏支・襄武・晏然・新鄣・平狄・司監等縣。又分西平界置晉興郡、統晉興・枹罕・永固・臨津・臨鄣・廣昌・大夏・遂興・罕唐・左南等縣。 (『晋書』巻十四、地理志上…

始興県

t-s.hatenablog.com 惠帝分隴西之狄道・臨洮・河關、又立洮陽・遂平・武街・始興・第五・真仇六縣、合九縣置狄道郡、屬秦州。張駿分屬涼州、又以狄道縣立武始郡。江左分梁為秦、寄居梁州、又立氐池為北秦州。 (『晋書』巻十四、地理志上、秦州) 先日の記事…

ひとこと

へえ、劉宋頃の「僑郡」に「北扶風」とか「西扶風」なんてものもあったのか。 本場「扶風」も別にあったらしい(南陽郡あたりに置かれた)ので、「北」や「西」は南陽にあった僑郡の扶風から見ての方角だったのかな・・・?

第五県

惠帝分隴西之狄道・臨洮・河關、又立洮陽・遂平・武街・始興・第五・真仇六縣、合九縣置狄道郡、屬秦州。張駿分屬涼州、又以狄道縣立武始郡。江左分梁為秦、寄居梁州、又立氐池為北秦州。 (『晋書』巻十四、地理志上、秦州) 晋の秦州(隴西郡狄道のあたり…

本日も

なんというか余裕がないので、これくらいにしておきます。

同じタイプの

是日、(李)傕復移帝幸其北塢、唯皇后・宋貴人倶。傕使校尉監門、隔絕内外。尋復欲徙帝於池陽黄白城、君臣惶懼。 (『後漢書』列伝第六十二、董卓伝) 李傕は献帝を池陽県に移そうとした、という(取りやめている)。 三月、詔隴西徙襄武、安定徙美陽、北地…

じょうじ

散騎常侍、四人。掌侍左右。秦置散騎、又置中常侍。散騎並乗輿車後。中常侍得入禁中。皆無員、並為加官。 漢東京初省散騎、而中常侍因用宦者。 魏文帝黄初初置散騎、合於中常侍、謂之散騎常侍、始以孟達補之。久次者為祭酒散騎常侍、秩比二千石。 (『宋書』…