敦煌郡のなりたち

又遣浮沮將軍公孫賀出九原、匈河將軍趙破奴出令居、皆二千餘里、不見虜而還。
乃分武威・酒泉地置張掖・敦煌郡、徙民以實之。
(『漢書』巻六、武帝紀、元鼎六年秋)


河西の敦煌郡あたりは、なりたちからし漢の武帝匈奴を下すか追い払うかしたところに民を移住させたものだったらしい。



この場合に移住する者は、強制的なものか、何か地元にいられない、またはいたくない理由がある者がほとんどだろう。仮に多少条件が良かったとしても、十分な財産や地位がある者が辺境の開拓地に進んで移住したがらないだろうから。




つまり、当時の感覚で言えば下等民とでも言われるような扱いだったのではないかと思う。




こういったことから、昨日の記事にあったような辺境民に対する制限、差別待遇が生まれたのだろうか?