謝と射

三輔決録注曰、(射)援字文雄、扶風人也。其先本姓謝、與北地諸謝同族。始祖謝服為將軍出征、天子以謝服非令名、改為射、子孫氏焉。兄堅、字文固、少有美名、辟公府為黄門侍郎。獻帝之初、三輔饑亂、堅去官、與弟援南入蜀依劉璋、璋以堅為長史。劉備代璋、以堅為廣漢・蜀郡太守。援亦少有名行、太尉皇甫嵩賢其才而以女妻之、丞相諸葛亮以援為祭酒、遷從事中郎、卒官。
(『三国志』巻三十二、先主伝注引『三輔決録注』)


蜀漢の射援の先祖は「謝服」といったが、将軍になって出征するというときに姓名が「謝って服従する」という意味になるの嫌った天子のため「射」と改姓することになったのだという。



王莽か後漢前半頃の皇帝がやりそう(偏見)。





「射」氏が「謝」氏だった実例があるわけだ。



「射慈」の「射」氏も実は同じ一族であるか、あるいは別の一族ではあっても、同じように「謝」氏から「射」氏に改姓していた、ということかもしれない。



仇を避けるためとか、同じように「謝」を嫌われたとか。