『三国志』文帝紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/26/145757)の続き。





秋七月庚辰、令曰「軒轅有明臺之議、放勛有衢室之問、皆所以廣詢於下也。百官有司、其務以職盡規諫、將率陳軍法、朝士明制度、牧守申政事、縉紳考六藝、吾將兼覽焉。」
孫權遣使奉獻。
蜀將孟達率衆降。
武都氐王楊僕率種人内附、居漢陽郡。
甲午、軍次於譙、大饗六軍及譙父老百姓於邑東。
八月、石邑縣言鳳皇集。
冬十月癸卯、令曰「諸將征伐、士卒死亡者或未收斂、吾甚哀之。其告郡國給槥櫝殯斂、送致其家、官為設祭。」
丙午、行至曲蠡。
漢帝以衆望在魏、乃召羣公卿士、告祠高廟。使兼御史大夫張音持節奉璽綬禪位、冊曰「咨爾魏王、昔者帝堯禪位於虞舜、舜亦以命禹、天命不于常、惟歸有徳。漢道陵遲、世失其序、降及朕躬、大亂茲昏、羣兇肆逆、宇内顛覆。頼武王神武、拯茲難於四方、惟清區夏、以保綏我宗廟、豈予一人獲乂、俾九服實受其賜。今王欽承前緒、光于乃徳、恢文武之大業、昭爾考之弘烈。皇靈降瑞、人神告徴、誕惟亮采、師錫朕命、僉曰爾度克協于虞舜、用率我唐典、敬遜爾位。於戲!天之暦數在爾躬、允執其中、天祿永終。君其祗順大禮、饗茲萬國、以肅承天命。」乃為壇於繁陽。
庚午、王升壇即阼、百官陪位。事訖、降壇、視燎成禮而反。
改延康為黄初、大赦
(『三国志』巻二、文帝紀


孟達劉備の元より降伏。

會(關)羽覆敗、先主恨之。又(劉)封與(孟)達忿爭不和、封尋奪達鼓吹。達既懼罪、又忿恚封、遂表辭先主、率所領降魏。
魏文帝善達之姿才容觀、以為散騎常侍・建武將軍、封平陽亭侯。合房陵・上庸・西城三郡為新城郡、以達領新城太守。遣征南將軍夏侯尚・右將軍徐晃與達共襲封。
(『三国志』巻四十、劉封伝)


孟達関羽を助け(られ)なかった事と劉備の養子劉封と不和だった事から魏に鞍替えした。漢中と荊州の間に位置するので、荊州の情勢次第で立ち位置が変わるというのもあるかもしれない。





そして、遂に献帝は皇帝の位を魏王に譲る。


禅譲である。



曹丕の代になってから用意を始めて1年もせずに準備が終わるわけがない。まず間違いなく、先代の時からずっと準備や根回しをしていたのだろう。


まあ、本当なら魏武の時に禅譲まで持っていくつもりだった可能性の方が高いと思う。出来なかったのは寿命の問題だろう。


益州荊州も揚州もマトモに支配出来ていない内は禅譲もカッコが付かないが、孫権が形だけでも臣従している今なら益州以外は自分(漢)の版図と言えるので、やっとカッコが付く。つまり魏武が死ぬ寸前で初めて魏が禅譲を受ける土台が固まった、という事なのだと思う(もっと早く禅譲を受けようとするのは敵を増やす結果になると踏んだのではなかろうか)。