『三国志』文帝紀を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/24/000100)の続き。





元年二月壬戌、以大中大夫賈詡為太尉、御史大夫華歆為相國、大理王朗為御史大夫
置散騎常侍・侍郎各四人。
其宦人為官者不得過諸署令、為金策著令、藏之石室。
初、漢熹平五年、黄龍見譙。光祿大夫橋玄問太史令單颺「此何祥也?」颺曰「其國後當有王者興、不及五十年、亦當復見。天事恆象、此其應也。」内黄殷登默而記之。至四十五年、登尚在。三月、黄龍見譙。登聞之曰「單颺之言、其驗茲乎!」
己卯、以前將軍夏侯惇為大將軍。
濊貊・扶餘單于・焉耆・于闐王皆各遣使奉獻。
夏四月丁巳、饒安縣言白雉見。庚午、大將軍夏侯惇薨。
五月戊寅、天子命王追尊皇祖太尉曰太王、夫人丁氏曰太王后、封王子叡為武徳侯。
是月、馮翊山賊鄭甘・王照率衆降、皆封列侯。
酒泉黄華・張掖張進等各執太守以叛。金城太守蘇則討進、斬之。華降。
六月辛亥、治兵于東郊、庚午、遂南征。
(『三国志』巻二、文帝紀


魏王・丞相が代わり、建安25年から延康元年に改まった。魏王・丞相の死を悼み代替わりを喜ぶような改元なのか、それとも簒奪者の死を喜ぶ改元なのかは知らない。




「皇祖太尉」というのは銭で太尉になったと言われた魏武の父曹嵩の事。という事は丁氏というのはその正妻(扱いされる妻妾)だろう。魏武の実母なのかは知らないが、その可能性は十分ある。




王子叡すなわち後の魏の烈祖様であるが、このタイミングで王太子ではなく列侯になったのだとしたら、それは「この者は次の魏王候補者からは外したので外に出す」という魏王の宣言みたいなものだろう。


最低15歳以上で、このタイミングで太子になってもおかしくない年齢であるから、そこには今の魏王の明確な意思が見て取れる。少なくとも、臣下の大半はそう感じたのではなかろうか。




三輔・旧涼州では反乱が発生。鎮圧されているとはいえ、なおも一触即発な危険な情勢であった事には変わりはない。



なお、この時に反乱して降伏した黄華は後に兗州刺史となり、王淩の反乱計画を打ち明けられるが司馬懿に密告した。こういう経歴だから誘われたのかもしれない。