『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/30/000100)の続き。






初、(孟)達與(諸葛)亮書曰「宛去洛八百里、去吾一千二百里、聞吾舉事、當表上天子、比相反覆、一月間也、則吾城已固、諸軍足辦。則吾所在深險、司馬公必不自來。諸將來、吾無患矣。」及兵到、達又告亮曰「吾舉事八日、而兵至城下、何其神速也!」
上庸城三面阻水、達於城外為木柵以自固。帝渡水、破其柵、直造城下。八道攻之、旬有六日、達甥鄧賢・將李輔等開門出降。斬達、傳首京師。俘獲萬餘人、振旅還于宛。乃勸農桑、禁浮費、南土悦附焉。
初、申儀久在魏興、專威疆埸、輒承制刻印、多所假授。達既誅、有自疑心。時諸郡守以帝新克捷、奉禮求賀、皆聽之。帝使人諷儀、儀至、問承制状、執之、歸于京師。又徙孟達餘衆七千餘家於幽州。蜀將姚靜・鄭他等帥其屬七千餘人來降。
時邊郡新附、多無戸名、魏朝欲加隠實。屬帝朝於京師、天子訪之於帝。帝對曰「賊以密網束下、故下棄之。宜弘以大綱、則自然安樂。」又問二虜宜討、何者為先。對曰「呉以中國不習水戰、故敢散居東關。凡攻敵、必扼其喉而摏其心。夏口・東關、賊之心喉。若為陸軍以向皖城、引權東下、為水戰軍向夏口、乗其虚而撃之、此神兵從天而墮、破之必矣。」天子並然之、復命帝屯於宛。
(『晋書』巻一、宣帝紀

孟達諸葛亮に対し「ワイが反乱起こしても、どうせ司馬懿の宛と洛陽の間でのやりとりに1ケ月やそこらはかかるやろからへーきへーき」と言っていたが、司馬懿がいきなりやってきた事を知ると「挙兵から8日後にやってくるとは、なんという神速や!」などと驚いたそうな。

司馬懿は洛陽の朝廷には事後承諾の形で戦地へ急行したのだろう。


孟達は反乱してから全部で1ケ月もかからずに敗れた事になるらしい。孟達は魏が対処するだけでも1ケ月かかると見込んでいたのだから、とんでもない速さだったのだろう。




また司馬懿が語る所では、呉・蜀のうち呉から討つべき、との事らしい。司馬懿は状況によってはどちらにも行けそうな場所に駐屯していたから、そういう質問が出てきたのかもしれない。