『三国志』武帝紀を読んでみよう:その19

その18(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/22/000100)の続き。





是時袁紹既并公孫瓚、兼四州之地、衆十餘萬、將進軍攻許、諸將以為不可敵、公曰「吾知紹之為人、志大而智小、色厲而膽薄、忌克而少威、兵多而分畫不明、將驕而政令不一、土地雖廣、糧食雖豐、適足以為吾奉也。」
秋八月、公進軍黎陽、使臧霸等入青州破齊・北海・東安、留于禁屯河上。
九月、公還許、分兵守官渡。
冬十一月、張繡率衆降、封列侯。
十二月、公軍官渡。
袁術自敗於陳、稍困、袁譚青州遣迎之。術欲從下邳北過、公遣劉備・朱靈要之。會術病死。程昱・郭嘉聞公遣備、言於公曰「劉備不可縱。」公悔、追之不及。備之未東也、陰與董承等謀反、至下邳、遂殺徐州刺史車冑、舉兵屯沛。遣劉岱・王忠擊之、不克。
廬江太守劉勳率衆降、封為列侯。
(『三国志』巻一、武帝紀)

暗転。


四年春三月、袁紹公孫瓚于易京、獲之。
衛將軍董承為車騎將軍。
夏六月、袁術死。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安四年)

後漢書』本紀によると公孫瓚が破れたのはこの年3月なので、魏武が河内郡を接収したのとほぼ入れ違いとなる。



その後も魏武はどちらかというと冀州に対して積極的に仕掛けている感じである。思うに、公孫瓚を破ったといっても、周辺まで平定し軍を再編成して魏武へ反撃できるまで時間がかかる、と見ていたのではないだろうか。


進軍した黎陽はもう既に魏郡であり、魏郡の治所鄴県も近い。



鄴を直接窺うと共に、戦が終わったばかりの袁紹側の郡県に圧力をかけて離反を誘う、といった戦略だったのではなかろうか。




まあ、離反は魏武の側から起こるわけだが。戦が終わったばかりというのは魏武側の徐州だって同じである。



劉備献帝より魏武を誅するべしという密勅を得たといい(『三国志』先主伝)、おそらく劉備が外、車騎将軍董承らが中から呼応して魏武に反旗を翻す予定だったのだろうから、劉備は予定通りに行動したとも言える。


中からも予定通りに反乱が起こっていれば、魏武の方が出征中に孤立する事になったのかもしれないし、そうでなくても袁紹との戦いどころではなくなっていただろう。




袁紹は(たぶん)魏武の想定より早く公孫瓚を片付けたとはいえ、まだ冀州戦線は魏武の方に先着の利があったであろう。だが、ここに来て急に自分の方が内部から食い荒らされる危険が迫ってきたのである。



魏武からすれば、追い風にも思えていたのに突如風向きが変わった数か月だったのではなかろうか。