『三国志』武帝紀を読んでみよう:その15

その14(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/17/000100)の続き。





二年春正月、公到宛。張繡降、既而悔之、復反。公與戰、軍敗、為流矢所中、長子昂・弟子安民遇害。公乃引兵還舞陰、繡將騎來鈔、公擊破之。繡奔穰、與劉表合。公謂諸將曰「吾降張繡等、失不便取其質、以至於此。吾知所以敗。諸卿觀之、自今已後不復敗矣。」遂還許。
袁術欲稱帝於淮南、使人告呂布。布收其使、上其書。術怒、攻布、為布所破。
秋九月、術侵陳、公東征之。術聞公自來、棄軍走、留其將橋蕤・李豊・梁綱・樂就。公到、擊破蕤等、皆斬之。術走渡淮。公還許。
公之自舞陰還也、南陽・章陵諸縣復叛為繡、公遣曹洪擊之、不利、還屯葉、數為繡・表所侵。
冬十一月、公自南征、至宛。表將鄧濟據湖陽。攻拔之、生擒濟、湖陽降。攻舞陰、下之。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、張繍にやられる。

張繡、武威祖厲人、驃騎將軍濟族子也。邊章・韓遂為亂涼州、金城麴勝襲殺祖厲長劉雋。繡為縣吏、閒伺殺勝、郡内義之。遂招合少年、為邑中豪傑。
董卓敗、濟與李傕等撃呂布、為卓報仇。語在卓傳。繡隨濟、以軍功稍遷至建忠將軍、封宣威侯。
濟屯弘農、士卒飢餓、南攻穰、為流矢所中死。繡領其衆、屯宛、與劉表合。
太祖南征、軍淯水、繡等舉衆降。太祖納濟妻、繡恨之。太祖聞其不悦、密有殺繡之計。計漏、繡掩襲太祖。太祖軍敗、二子沒。繡還保穰、太祖比年攻之、不克。
(『三国志』巻八、張繍伝)

張繍董卓の元にいた将で、弘農に駐屯していたが宛に流れ着いていた。そこでこの度魏武に降伏したが、張繍の同族(族父)張済の妻が魏武によってアレされて、それを恨んでいたら魏武によって殺されそうになったという事で反旗を翻したそうな。これを見る限りでは割と魏武の自業自得。


これで魏武は長子の曹昂や護衛の典韋を失った。



「すぐ人質を取らなかったためにこうなってしまった」と言っているようだ。まあそんな魏武は父が人質状態になっていてもあまり関係なく徐州に戦争仕掛けたわけだが。




そして袁術が陳国に攻め込んできたが魏武は返り討ちにした。袁術献帝奪取をもくろんでいたフシがあるので、魏武の敗退を献帝奪取のチャンスと見たか?