王か侯か

帝不聽、遂受呉降、即拝(孫)權為呉王。
(劉)曄又進曰「不可。先帝征伐、天下兼其八、威震海内、陛下受禪即真、徳合天地、聲暨四遠、此實然之勢、非卑臣頌言也。權雖有雄才、故漢驃騎將軍南昌侯耳、官輕勢卑。士民有畏中國心、不可彊迫與成所謀也。不得已受其降、可進其將軍號、封十萬戸侯、不可即以為王也。夫王位、去天子一階耳、其禮秩服御相亂也。彼直為侯、江南士民未有君臣之義也。我信其偽降、就封殖之、崇其位號、定其君臣、是為虎傅翼也。權既受王位、卻蜀兵之後、外盡禮事中國、使其國内皆聞之、内為無禮以怒陛下。陛下赫然發怒、興兵討之、乃徐告其民曰『我委身事中國、不愛珍貨重寶、隨時貢獻、不敢失臣禮也、無故伐我、必欲殘我國家、俘我民人子女以為僮隸僕妾。』呉民無緣不信其言也。信其言而感怒、上下同心、戰加十倍矣。」又不從。遂即拝權為呉王。
(『三国志』巻十四、劉曄伝注引『傅子』)

魏の曹丕孫権に呉王を与えようとした時の劉曄の反対。



劉曄によれば、王は天子との差は一段しかない存在であり、呉の人間との君臣関係が定まってしまうので、十万戸の侯にするならいいが、王にするのはダメだ、という。





ここで比較されるのは「侯」と「王」だが、魏公か魏王かという問題も繋がっているのかもしれない。



魏公と比べ、魏王はやはり明確に天子により近づいたという印象があるのだろう。