『三国志』文帝紀を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/27/000100)の続き。





黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙、封公之四子為列侯。
追尊皇祖太王曰太皇帝、考武王曰武皇帝、尊王太后曰皇太后
賜男子爵人一級、為父後及孝悌力田人二級。
以漢諸侯王為崇徳侯、列侯為關中侯。
以潁陰之繁陽亭為繁昌縣。封爵增位各有差。
改相國為司徒、御史大夫為司空、奉常為太常、郎中令為光祿勳、大理為廷尉、大農為大司農。
郡國縣邑、多所改易。
更授匈奴南單于呼廚泉魏璽綬、賜青蓋車・乗輿・寶劍・玉玦。
十二月、初營洛陽宮、戊午幸洛陽。
是歳、長水校尉戴陵諫不宜數行弋獵、帝大怒、陵減死罪一等。
(『三国志』巻二、文帝紀

黄初元年。年としては建安25年、延康元年、黄初元年は同じ年である。



元漢の皇帝献帝は山陽公という爵位を与えられた。魏に位を譲った前王朝という事で尊重されるのである。といっても捨て扶持と言うべきもので、政治的な実権は無いものと思っていいだろう。



曹嵩は太皇帝、魏武は武皇帝となった。




また漢の諸侯王は「崇徳侯」、漢の列侯は「関中侯」とされたという。


これは魏武が創設した新たな爵位「名号侯」「関中侯」ではなかろうか。これらは実際には地租を直接得られない侯であるらしい。



あと、そうなると列侯に魏王国で独自に封建した「魏の列侯」がいたのだろうか・・・?


相国などの官職の改称は、魏王国での官名を新たな魏王朝での官名に改める、という事。言い換えると、後漢王朝と同じ名前に直す、という事だ。



文帝受禪、(鮑)勛毎陳「今之所急、唯在軍農、寬惠百姓。臺榭苑囿、宜以為後。」
文帝將出游獵、勛停車上疏曰「臣聞五帝三王、靡不明本立教、以孝治天下。陛下仁聖惻隠、有同古烈。臣冀當繼蹤前代、令萬世可則也。如何在諒闇之中、修馳騁之事乎!臣冒死以聞、唯陛下察焉。」帝手毀其表而競行獵、中道頓息、問侍臣曰「獵之為樂、何如八音也?」侍中劉曄對曰「獵勝於樂。」勛抗辭曰「夫樂、上通神明、下和人理、隆治致化、萬邦咸乂。移風易俗、莫善於樂。況獵、暴華蓋於原野、傷生育之至理、櫛風沐雨、不以時隙哉?昔魯隠觀漁於棠、春秋譏之。雖陛下以為務、愚臣所不願也。」
因奏「劉曄佞諛不忠、阿順陛下過戲之言。昔梁丘據取媚於遄臺、曄之謂也。請有司議罪以清皇廟。」帝怒作色、罷還、即出勛為右中郎將。
(『三国志』巻十二、鮑勛伝)

曹丕の狩猟に対する諫言は、長水校尉戴陵以外にも鮑勛のものが有名である。



「諒闇」すなわち魏武の喪中という事を言っているので、これも戴陵と同じ頃なのだろう。



この時期の曹丕の狩猟熱は、少なくとも彼らのような「うるさがた」には目に余るものと映ったようだ。