『漢書』成帝紀を読んでみよう:その16

その15(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180410/1523286276)の続き。




永始元年春正月癸丑、太官凌室火。
戊午、戻后園闕火。
夏四月、封婕簱趙氏父臨為成陽侯。
五月、封舅曼子侍中騎都尉光祿大夫王莽為新都侯。
六月丙寅、立皇后趙氏。大赦天下。
秋七月、詔曰、「朕執徳不固、謀不盡下、過聽將作大匠萬年言昌陵三年可成。作治五年、中陵・司馬殿門内尚未加功。天下虚耗、百姓罷勞、客土疏惡、終不可成。朕惟其難、怛然傷心。夫『過而不改、是謂過矣。』其罷昌陵、及故陵勿徙吏民、令天下毋有動搖之心。」
城陽孝王子俚為王。
八月丁丑、太皇太后王氏崩。
(『漢書』巻十、成帝紀


永始元年。



この年に皇后になった趙氏というのは、あの有名な「趙飛燕」である。

孝成趙皇后、本長安宮人。初生時、父母不舉、三日不死、乃收養之。
及壯、屬陽阿主家、學歌舞、號曰飛燕。成帝嘗微行出、過陽阿主、作樂。上見飛燕而説之、召入宮、大幸。有女弟復召入、倶為祜礱、貴傾後宮
許后之廢也、上欲立趙祜礱。皇太后嫌其所出微甚、難之。太后姉子淳于長為侍中、數往來傳語、得太后指、上立封趙祜礱父臨為成陽侯。後月餘、乃立祜礱為皇后。追以長前白罷昌陵功、封為定陵侯。
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成趙皇后)


皇帝が公主の家の宴会で見染めた、というのは武帝の衛皇后と同じような展開である。




新都侯になった、とわざわざ書かれている王莽は「あの」王莽である。彼は謹厳実直なところが当時の王氏の執政や当時の著名人などに気に入られて列侯や侍中といった地位に就くことが出来たのだという。




成帝は自分の皇帝陵となるべき昌陵の造営を中止した。予算的な問題と、世論への配慮とがあったのだろう。




この年に死去した太皇太后王氏というのは、宣帝の皇后だった王氏である。皇太后も王氏なのでわかりにくい。