『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その7

その6の続き。


莽還京師歳餘、哀帝崩、無子、而傅太后・丁太后皆先薨。太皇太后即日駕之未央宮收取璽綬、遣使者馳召莽。詔尚書、諸發兵符節・百官奏事・中黄門・期門兵皆屬莽。
莽白「大司馬高安侯董賢年少、不合衆心、收印綬。」賢即日自殺。
太后詔公卿舉可大司馬者、大司徒孔光、大司空彭宣舉莽、前將軍何武・後將軍公孫祿互相舉。太后拜莽為大司馬、與議立嗣。安陽侯王舜莽之從弟、其人修飭、太后所信愛也、莽白以舜為車騎將軍、使迎中山王奉成帝後、是為孝平皇帝。帝年九歳、太后臨朝稱制、委政於莽。
莽白趙氏前害皇子、傅氏驕僭、遂廢孝成趙皇后・孝哀傅皇后、皆令自殺、語在外戚傳。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽が都に帰ってから一年余り、哀帝が男子の無いまま崩御し、実の祖母傅太后・実母丁太后も先に亡くなっていた。



太皇太后(元后)は即日馬車に乗って皇帝の宮殿である未央宮へ向かい皇帝の印璽を確保し、使者を遣わして王莽を急ぎ駆けつけさせ、尚書・武器使用許可権限・官僚の上奏・皇帝の近臣・護衛兵を全て王莽に所属させた。



王莽は「大司馬高安侯の董賢は年若く、人々の気持ちを掴んでいない。解任すべきです」と元后へ言上した。董賢は即日自殺した。



元后は公や大臣たちに大司馬にふさわしい人物を推薦させた。大司徒孔光・大司空彭宣は王莽を推薦した。前将軍何武と後将軍公孫禄はお互いを推薦した。そこで元后は王莽を大司馬にした。



王莽は、自分の従弟の安陽侯王舜が真面目な性格で元后に気に入られていることから、王舜を車騎将軍に命じて中山王を成帝の後継者として迎えに行かせることを提案した。これが平帝である。平帝はこの時九歳であった。元后が摂政となり、政治は王莽に一任した。



王莽は成帝の皇后であった皇太后趙氏(趙飛燕)は以前に成帝の皇子を殺害したこと、また哀帝の皇后傅氏は驕慢であったことを言上し、趙氏・傅氏を廃位させ、自殺に追い込んだ。そのあたりは『漢書外戚伝を参照せよ。



王莽を罷免、また太皇太后の元后からも実質的な影響力を剥ぎ取っていた哀帝が死去。



哀帝は臨終の時に皇帝の印璽を腹心の董賢に託していた。


董賢に次の皇帝選びを任せるものと言って差し支えないだろう。




こうなると、董賢や哀帝外戚が力を維持することはあっても、また血縁が無く関係が遠ざかる一方の王氏が力を盛り返すことはない。



そこで、既に老女であった元后、王莽の従兄弟王閎によって皇帝の印璽の強奪が図られ、大司馬になった経験と当時の評判がモノを言って王莽に政権が渡った、というところであろう。




哀帝崩、王莽白太后詔有司曰「前皇太后與昭儀俱侍帷幄、姉弟專寵錮寝、執賊亂之謀、殘滅繼嗣以危宗廟、誖天犯祖、無為天下母之義。貶皇太后為孝成皇后、徙居北宮。」
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成趙皇后)


そして哀帝即位直後の段階で成帝の皇子殺害疑惑が出ていた皇太后趙氏(成帝の皇后趙飛燕)と、哀帝の皇后傅氏とを一気に排除してしまい、哀帝時代とは逆に王氏以外に外戚がいないという状態を作り出したのである。