『漢書』成帝紀を読んでみよう:その17

その16(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180411/1523373235)の続き。




二年春正月己丑、大司馬車騎將軍王音薨。
二月癸未夜、星隕如雨。
乙酉晦、日有蝕之。
詔曰「乃者龍見于東萊、日有蝕之。天著變異、以顯朕郵、朕甚懼焉。公卿申敕百寮、深思天誡、有可省減便安百姓者、條奏。所振貸貧民、勿收。」
又曰「關東比歳不登、吏民以義收食貧民、入穀物助縣官振贍者、已賜直、其百萬以上、加賜爵右更、欲為吏補三百石、其吏也遷二等。三十萬以上、賜爵五大夫、吏亦遷二等、民補郎。十萬以上、家無出租賦三歳。萬錢以上、一年。」
冬十一月、行幸雍、祠五畤。
十二月、詔曰「前將作大匠萬年知昌陵卑下、不可為萬歳居、奏請營作、建置郭邑、妄為巧詐、積土筯高、多賦斂繇役、興卒暴之作。卒徒蒙辜、死者連屬、百姓罷極、天下匱竭。常侍閎前為大司農中丞、數奏昌陵不可成。侍中衛尉長數白宜早止、徙家反故處。朕以長言下閎章、公卿議者皆合長計。長首建至策、閎典主省大費、民以康寧。閎前賜爵關内侯、黄金百斤。其賜長爵關内侯、食邑千戸、閎五百戸。萬年佞邪不忠、毒流衆庶、海内怨望、至今不息、雖蒙赦令、不宜居京師。其徙萬年敦煌郡。」
是歳、御史大夫王駿卒。
(『漢書』巻十、成帝紀


王鳳の次に大司馬(+将軍)となった王音も死去。ちなみにその次に大司馬(+将軍)となったのは王商。「五侯」の一人である。


王鳳は「五侯」起用に反対していたのだが、ついに「五侯」の番が巡ってきた。




その一方、昌陵造営中止を進言したということで淳于長に爵位と領地が与えられた。



太后王氏の姉の子。成帝や王莽にとっては従兄弟という事になる。



実際は淳于長は趙皇后を立てる際の功労者であった事から成帝から褒賞する名目として昌陵の件が持ち出された、という事だという。