誇大広告

昨日の話の中で、前漢哀帝の正妻傅皇后親子は哀帝の治世の間廃位されずに済んだ、とされていた。これは確かに事実である。



(傅)晏封後月餘、傅妃立為皇后。傅氏既盛、晏最尊重。
哀帝崩、王莽白太皇太后詔曰「定陶共王太后與孔郷侯晏同心合謀、背恩忘本、專恣不軌、與至尊同稱號、終沒、至乃配食於左坐、誖逆無道。今令孝哀皇后退就桂宮。」後月餘、復與孝成趙皇后倶廢為庶人、就其園自殺。
(『漢書』巻九十七下、孝哀傅皇后伝)

(傅)喜在國三歳餘、哀帝崩、平帝即位、王莽用事、免傅氏官爵歸故郡、晏將妻子徙合浦。
莽白太后下詔曰「高武侯喜姿性端慤、論議忠直、雖與故定陶太后有屬、終不順指從邪、介然守節、以故斥逐就國。傳不云乎?『歳寒然後知松柏之後凋也。』其還喜長安、以故高安侯莫府賜喜、位特進、奉朝請。」喜雖外見襃賞、孤立憂懼、後復遣就國、以壽終。莽賜諡曰貞侯。
(『漢書』巻八十二、傅喜伝)


しかし、哀帝が死んで平帝が即位してあの王莽が政権を握ると、傅皇后は廃されて自殺、傅皇后の父である傅晏ははるか遠く合浦へ配流され、一族傅喜*1も配流こそ免れたが政治の場からは遠ざけられた。




つまり、傅氏は「哀帝の時代は廃されずに済んだが、哀帝の時代が終わった途端にひどい目にあった」という事である。




昨日の記事に出てきた桓譚の話は少々誇大広告気味である。

*1:なお、昨日の記事に「后弟侍中(傅)喜」すなわち皇后の弟傅喜という者が出てきたが、今日の記事に出てくる傅喜は傅晏の従兄弟である。別の侍中傅喜がいたのだろうか。