『漢書』元帝紀を読んでみよう:その1

ちょっと前まで『漢書』宣帝紀を見てきたので、もうこうなったらついでに『漢書元帝紀も同じように見ていこうじゃないか。



中国の皇帝の中でもあまりパッとしない皇帝といえば元帝だが、そんな地味な側面以外も見えてくるかもしれないし。




孝元皇帝、宣帝太子也。
母曰共哀許皇后、宣帝微時生民間。
年二歳、宣帝即位。
八歳、立為太子。
壯大、柔仁好儒。見宣帝所用多文法吏、以刑名繩下、大臣楊綠・蓋𥶡饒等坐刺譏辭語為罪而誅、嘗侍燕從容言「陛下持刑太深、宜用儒生。」宣帝作色曰「漢家自有制度、本以霸王道雜之、奈何純任徳教、用周政乎!且俗儒不達時宜、好是古非今、使人眩於名實、不知所守、何足委任!」乃歎曰「亂我家者、太子也!」
繇是疏太子而愛淮陽王、曰「淮陽王明察好法、宜為吾子。」而王母張祜礱尤幸。
上有意欲用淮陽王代太子、然以少依許氏、倶從微起、故終不背焉。
黄龍元年十二月、宣帝崩。
癸巳、太子即皇帝位、謁高廟。尊皇太后太皇太后、皇后曰皇太后
(『漢書』巻九、元帝紀)

元帝は宣帝がまだ皇帝になる前に生まれている。宣帝が15歳か16歳くらいの時の子という事になるのだろう。



淮陽憲王欽、元康三年立、母張祜礱有寵於宣帝。霍皇后廢後、上欲立張祜礱為后。久之、懲艾霍氏欲害皇太子、乃更選後宮無子而謹慎者、乃立長陵王祜礱為后、令母養太子。后無寵、希御見、唯張祜礱最幸。
而憲王壯大、好經書法律、聰達有材、帝甚愛之。太子𥶡仁、喜儒術、上數嗟歎憲王、曰「真我子也!」常有意欲立張祜礱與憲王、然用太子起於微細、上少依倚許氏、及即位而許后以殺死、太子蚤失母、故弗忍也。
久之、上以故丞相韋賢子玄成陽狂讓侯兄、經明行高、稱於朝廷、乃召拜玄成為淮陽中尉、欲感諭憲王、輔以推讓之臣、由是太子遂安。
(『漢書』巻八十、淮陽憲王欽伝)

宣帝は皇太子すなわち後の元帝儒者の考えに近く、皇帝には相応しくないと考えたそうだが、元帝の実母許皇后やその一族の事を考え、元帝を廃位せずに済ませたという。



内心では優秀な淮陽王とその母張氏を寵愛し、皇太子チェンジを真剣に考えてはいたようだ。




これが最終的に正しい判断だったのかどうか、少なくともこの時点では何とも言えない。





元帝が即位した時に太皇太后になったとされているのは昭帝の皇后上官氏の事であろう。『漢書外戚伝上では宣帝即位の段階で太皇太后になったかのように書かれているが。


そして皇太后になったのは宣帝が敢えて選んだ王皇后。