『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その42

その41の続き。


莽軍師外破、大臣内畔、左右亡所信、不能復遠念郡國、欲謼(王)邑與計議。崔發曰「邑素小心、今失大衆而徴、恐其執節引決、宜有以大慰其意。」
於是莽遣發馳傳諭邑「我年老毋適子、欲傳邑以天下。敕亡得謝、見勿復道。」
邑到、以為大司馬。大長秋張邯為大司徒、崔發為大司空、司中壽容苗訢為國師、同説侯林為衛將軍。
莽憂懣不能食、亶飲酒、啗鰒魚。讀軍書倦、因馮几寐、不復就枕矣。性好時日小數、及事迫急、亶為厭勝。遣使壞渭陵・延陵園門罘罳、曰「毋使民復思也。」又以墨洿色其周垣。號將至曰「歳宿」、申水為「助將軍」、右庚「刻木校尉」、前丙「燿金都尉」、又曰「執大斧、伐枯木。流大水、滅發火。」如此屬不可勝記。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

王莽は征伐の軍が外で敗北し、大臣が内側で反乱し、左右に信用できる者も無くなったため、遠く郡国の事を考えることもできなくなり、王邑を呼び寄せて今後の事を相談しようと思った。崔発は「王邑は小心者であり、今多くの者を失って召喚されるとしたら、節を守るため自殺してしまうかもしれません。彼の心を慰めるべきです」と言った。
そこで王莽は崔発を遣わして早馬で王邑に「私は年老いて嫡子も無いので、王邑に天下を伝えようと考えている。辞退しないよう命じる。面会した時に辞退を言ってはならない」と説諭させた。



王邑が長安に到着すると、王邑を大司馬とした。大長秋の張邯を大司徒とした。崔発を大司空とした。司中寿容苗訢を国師とした。同説侯王林を衛将軍とした。



王莽は憂悶し食事が喉を通らず、ただ酒を飲み、海の魚を食べるばかりであった。軍書を読んで疲れるとひじ掛けに寄りかかって眠り、枕で眠る事はなかった。
王莽はもとより日時の占いなどを好んでいたが、事態が切迫してくると、神秘の力で福を得ようとするばかりであった。使者を派遣して渭陵・延陵園の門の塀を破壊させ、「民に漢を思い出させないためである」と言った。また周囲の壁を墨で汚した。将軍*1を「歳宿」と呼び、申の方角の水を「助将軍」と呼び、西を「刻木校尉」と呼び、南を「燿金都尉」と呼んだ。また「大きな斧を持って枯れ木を伐採する。大水を流して着いた火を消す」と言った。このような事が書ききれないくらいあった。


王莽、新体制をスタートさせる。



従兄弟の王邑に後を継がせるとまで言っていて、相当追い詰められた感じがある。



王林は王舜の子なので彼も王莽の親族。



また、苗訢は一度大司馬になったが左遷させられており、最上位に返り咲いたという感じである。





「罘罳」はたぶん「復思」と音が近似なのだと思われる。つまり「罘罳」=「復思」なので「罘罳」を破壊すれば人々が「復思」することは無いだろう、という一種の言葉遊びである。





まともな食事が喉を通らず、酒とつまみの魚だけを飲食している、ということか。「うどんくらいしか食べる気がしない」というヤツだ。
精神的にキテるのか、肉体が既に蝕まれているのか、何にしても王莽自身も既に末期的な感じである。





*1:王先謙『漢書補注』によると「将至」は「将軍」が正しいという。