『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その47

その46の続き。


三日庚戌、晨旦明、羣臣扶掖莽、自前殿南下椒除、西出白虎門、和新公王揖奉車待門外。莽就車、之漸臺、欲阻池水、猶抱持符命・威斗、公卿大夫・侍中・黄門郎從官尚千餘人隨之。
王邑晝夜戰、罷極、士死傷略盡、馳入宮、間關至漸臺、見其子侍中睦解衣冠欲逃、邑叱之令還、父子共守莽。
軍人入殿中、謼曰「反虜王莽安在?」有美人出房曰「在漸臺。」衆兵追之、圍數百重。臺上亦弓弩與相射、稍稍落去。矢盡、無以復射、短兵接。王邑父子・䠠綠・王巡戰死、莽入室。下餔時、衆兵上臺、王揖・趙博・苗訢・唐尊・王盛・中常侍王參等皆死臺上。
商人杜呉殺莽、取其綬。校尉東海公賓就、故大行治禮、見呉問綬主所在。曰「室中西北陬間。」就識、斬莽首。軍人分裂莽身、支節肌骨臠分、爭相殺者數十人。公賓就持莽首詣王憲。憲自稱漢大將軍、城中兵數十萬皆屬焉、舍東宮、妻莽後宮、乗其車服。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

三日庚戌の朝、群臣は王莽を抱えて前殿から南の椒除という道を通って西へ向かい白虎門を出て、和新公の王揖が門の外で馬車で待っていた。王莽はその馬車で漸台へ行って池で相手の侵攻を阻もうとした。なおも予言の書や威斗を抱きかかえ、三公・九卿や侍中・黄門郎や侍従たちがなおも千人以上が付き従った。



王邑は昼夜問わず戦い続けたが疲弊の極みになり、兵士もみな死傷したため、宮殿内に入り、苦労して漸台へ至り、そこで自分の子の侍中王睦が衣服や冠を脱ぎ捨てて逃亡しようとしているのを発見した。王邑は王睦を叱りつけて戻るように命じ、親子で王莽を守った。



軍人たちが殿中に入り、「反乱者王莽はどこだ?」と叫んだ。後宮から宮女が出てきて「漸台におります」と答えた。兵士たちは王莽を追い、数百重ねにも連なって包囲した。漸台の上から弓や弩で撃ちかけてある程度倒したが、矢が無くなり、近接兵器で応戦するしかなくなった。
王邑親子・䠠綠・王巡は戦死し、王莽は部屋の中に入った。夕方、兵士たちが漸台に登り、王揖・趙博・苗訢・唐尊・王盛・中常侍王参らは皆漸台の上で死んだ。



商人の杜呉が王莽を殺害し、その印璽の紐(綬)を奪い取った。東海の人である校尉の公賓就は元は大行治礼であったためその紐に気付き、杜呉にその持ち主がどこにいたかを尋ねた。杜呉は「部屋の西北の隅にいた」と答えた。公賓就は王莽の遺体を発見し、王莽の首を取った。兵士たちは王莽の遺体を争って切り刻み、奪い合って数十人が殺し合った。
公賓就は王莽の首を王憲の元へ持って行った。王憲は漢の大将軍を自称し、城内の兵数十万が皆彼に属した。東宮に寝泊まりし、王莽の側室たちを自分の妻とし、王莽の衣服や馬車を使った。



王莽、死す。




だが王莽を判別できない者に殺されて死体は一旦は放置されていたということだ。



公賓就が経験したという「大行治礼」というのは大鴻臚に属する官署「大行」の官僚ということである。つまり公賓就は衣服その他の格式などについて知識があり、杜呉が持っていた紐が王莽の使っていたものだとわかったのである。



賞金がかかっていた者の身体を一部分でも持って行けば賞金にありつけるに違いない、というのは以前項羽の時にあったことであるが、その時は五分割だったのが、今回はもっと細かく寸断されたようだ*1




*1:王莽の遺体について使われている「臠」というのは肉の「切り身」のこと。細切れになったということらしい。