繍衣御史の明暗

文・景間、(王)安孫遂字伯紀、處東平陵、生賀、字翁孺。為武帝繡衣御史、逐捕魏郡羣盜堅盧等黨與、及吏畏懦逗遛當坐者、翁孺皆縱不誅。它部御史暴勝之等奏殺二千石、誅千石以下、及通行飲食坐連及者、大部至斬萬餘人、語見酷吏傳。翁孺以奉使不稱免、嘆曰「吾聞活千人有封子孫、吾所活者萬餘人、後世其興乎!」
(『漢書』巻九十八、元后伝)


王莽の先祖の王賀という者は、漢の武帝の元で地方の野盗頻発のため地方官を取り締まる繍衣御史となったが、職務をあまり真面目にやらず、多くの者が命を取られずに済んだという。



ここで出てくる暴勝之は同じ時にやはり繍衣御史となった人物だが、こちらはかなり厳しい暴力装置であったと言われている。


王訢、濟南人也。以郡縣吏積功、稍遷為被陽令。武帝末、軍旅數發、郡國盜賊羣起、繡衣御史暴勝之使持斧逐捕盜賊、以軍興從事、誅二千石以下。
勝之過被陽、欲斬訢、訢已解衣伏質、仰言曰「使君顓殺生之柄、威震郡國、今復斬一訢、不足以增威、不如時有所寬、以明恩貸、令盡死力。」勝之壯其言、貰不誅、因與訢相結厚。
(『漢書』巻六十六、王訢伝)

だが、そんな暴勝之も王訢という県令から説得されて処刑しないで助けてやったという話が残っている。



王賀にしても暴勝之にしても、武帝が既に高齢であったこの時期、あまりに真面目にやりすぎて周囲の恨みを買うよりは、加減をして人々に恩を売った方がいいのではないか、今に皇帝が代わって方針も変わってしまうかもしれないじゃないか、という想いは共通して抱いていたのではなかろうか。王賀の方が大胆だっただけで。



なお、罷免されて嘆いた王賀に対し、暴勝之は御史大夫に至っている。これは、王賀が人を助けすぎ、言い換えれば職務怠慢に過ぎた事と、武帝の治世がまだ10年以上続き、助けた人々から恩返ししてもらうような機会にも恵まれなかったという事ではなかろうか。


もし武帝が程なくして代替わりしたら、新たな治世の元では「寛仁の使者」として記憶に新しい王賀だって復権していたかもしれないというものだ。


王賀は「武帝の治世はすぐ終わるから恨みを持たれない方がいい」と読んで、その読みが当たらなかった、のかもしれない。




なお、この時暴勝之から暴力反対を勝ち取った王訢の子孫が王莽の正妻である。縁というほどのものでもないが、王莽の先祖にも王莽の妻の先祖にも繍衣御史の処刑にまつわる話が伝わっていたわけだ。