『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その41

その40の続き。


七月、(孫)伋與邯倶告、莽遣使者分召(董)忠等。時忠方講兵都肄、護軍王咸謂忠謀久不發、恐漏泄、不如遂斬使者、勒兵入。忠不聽、遂與(劉)歆・王渉會省戸下。莽令䠠綠責問、皆服。中黄門各拔刃將忠等送廬、忠拔劍欲自刎、侍中王望傳言大司馬反、黄門持劍共格殺之。省中相驚傳、勒兵至郎署、皆拔刃張弩。
更始將軍史褜行諸署、告郎吏曰「大司馬有狂病、發、已誅。」皆令㢮兵。莽欲以厭凶、使虎賁以斬馬劍挫忠、盛以竹器、傳曰「反虜出」。
下書赦大司馬官屬吏士為忠所詿誤、謀反未發覺者。收忠宗族、以醇醯毒藥、尺白刃叢棘并一坎而埋之。
劉歆・王渉皆自殺。莽以二人骨肉舊臣、惡其内潰、故隠其誅。伊休侯疊又以素謹、歆訖不告、但免侍中中郎將、更為中散大夫。
後日殿中鉤盾土山僊人掌旁有白頭公青衣、郎吏見者私謂之國師公。
衍功侯喜素善卦、莽使筮之、曰「憂兵火。」莽曰「小兒安得此左道?是乃予之皇祖叔父子僑欲來迎我也。」
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

七月、孫伋と陳邯は共に反乱計画を密告し、王莽は使者を遣わして董忠らを召し出した。この時董忠は兵士の軍事演習を行っていたが、護軍の王咸は董忠らの謀略が長い事実行されていないことから発覚を恐れ、召喚の使者を斬って兵を率いて殿中に入るべきと説いた。董忠はそれに従わず、劉歆・王渉と殿中の扉のそばで落ち合おうとした。
王莽は䠠綠に詰問させ、罪を認めた。中黄門はそれぞれ抜刀して董忠らを連行しようとしたが、董忠は剣を抜いて自殺しようとしたので、侍中王望が大司馬董忠が反乱したと人々に伝え、黄門は剣で董忠と戦って斬り殺した。殿中は驚いて兵を率いて郎官の役所へ向かい、皆抜刀し弩の弦を引き絞った。



更始将軍史褜が各部署を見回り、郎や官吏に「大司馬は正気を失って刃傷沙汰に及にんだので誅殺した」と告げ、皆の武器を収めさせた。王莽はこの凶事を鎮圧しようと思い、虎賁に斬馬剣で董忠を切り刻ませ、そのミンチを竹の器に入れて「反乱者が現われた」と伝言させた。



命令を下して大司馬の属官や兵で董忠によって過ちを犯すこととなった者、反乱を企んでまだ発覚していない者を赦免した。董忠の一族を捕え、毒薬漬けにして白刃や棘を一緒に入れて穴に埋めた。



劉歆・王渉はみな自殺した。王莽は二人が近親の旧臣であり、内部から反乱が生じた事を不快に思い、誅殺したことを隠した。劉歆の子の伊休侯劉疊は実直であり、劉歆も彼に最後まで反乱の事を言わなかったので、侍中・中郎将を罷免して中散大夫に任命するにとどめた。



後日、殿中の鉤盾土の甘露を受け止める台座のそばに白髪頭で青い服を来た老人がいるのが目撃された。それを目撃した郎官は密かにその者は国師公(劉歆)であると言った。
衍功侯は筮竹による占いが得意で、王莽が占わせたところ「兵や火災の禍がある」という結果が出た。王莽は「小童がどうして怪しげな術を習得できようか。これは予の祖先黄帝らが私を遠くから迎えに来ているのだ」と言った。



劉歆ら、死す。
董忠の刃傷沙汰は王莽のすぐそばで起こったことになる。もはや末期どころの騒ぎではない。




占いをした衍功侯というのは、たぶん王莽の親族。
初代は王莽の甥(兄の子)である王光であったが、王光が王莽によって自殺させられると爵位はその子の王嘉に継承されたと記されていた
王莽から見ると孫世代であり、実際にまだ若かったことだろうから、王莽は「小児」といった表現で罵ったのだろう。