『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その24

その23(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/16/000100)の続き。





四年春正月己卯、大赦天下。
二月、滎陽賊殺中牟令。
己亥、南宮内殿罘罳自壞。
三月、河南尹何苗討滎陽賊、破之、拜苗為車騎將軍。
夏四月、涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂、鄙兵大敗、遂寇漢陽、漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰・漢陽人王國並叛、寇三輔。
太尉張温免、司徒崔烈為太尉。
五月、司空許相為司徒、光祿勳沛國丁宮為司空。
六月、洛陽民生男、両頭共身。
漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛、攻殺右北平太守劉政・遼東太守楊終・護烏桓校尉公綦稠等。舉自稱天子、寇幽・冀二州。
秋九月丁酉、令天下繫囚罪未決、入縑贖。
冬十月、零陵人觀鵠自稱「平天將軍」、寇桂陽、長沙太守孫堅撃斬之。
十一月、太尉崔烈罷、大司農曹嵩為太尉。
十二月、休屠各胡叛。
是歳、賣關内侯、假金印紫綬、傳世、入錢五百萬。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

韓遂に続き馬騰の登場。



典略曰、平原劉子平知(劉)備有武勇、時張純反叛、青州被詔、遣從事將兵討純、過平原、子平薦備於從事、遂與相隨、遇賊於野、備中創陽死、賊去後、故人以車載之、得免。後以軍功、為中山安喜尉。
(『三国志』巻三十二、先主伝注引『典略』)

漁陽の張純・張挙の討伐に参加したとされるのがあの劉備。ただ、死んだふりをして生き延びはしたがそこで戦功は上げなかったようだが。


時長沙賊區星自稱將軍、衆萬餘人、攻圍城邑、乃以(孫)堅為長沙太守。到郡親率將士、施設方略、旬月之閒、克破星等。周朝・郭石亦帥徒衆起於零・桂、與星相應。遂越境尋討、三郡肅然。漢朝録前後功、封堅烏程侯。
(『三国志』巻四十六、孫堅伝)


その一方であの孫堅は長沙太守となって反乱者たちを討伐し、最終的には列侯にまでなったという。当時の太守の中では最もイキのいい人物だったかもしれない。




曹嵩はあの曹操の父。1億銭を積んで三公になったと言われている(『後漢書』宦者列伝)。崔烈は同じく500万銭積んで三公になり、「銅臭」が嫌われたと伝えられる(『後漢書』崔寔伝)。


当時の三公たちにはこういった話が付きまとったらしい。