上将軍

江表傳曰、(孫)權群臣議以為宜稱上將軍九州伯、不應受魏封。權曰「九州伯、於古未聞也。昔沛公亦受項羽拜為漢王、此蓋時宜耳、復何損邪?」遂受之。
(『三国志』呉主伝注引『江表伝』)

昨日の続き。

孫権の群臣は孫権に「上将軍・九州伯」を名乗ることを勧めたという。
九州伯については昨日の記事を見てもらうとして、上将軍はなんだろうか。
調べると楚で宋義がなり項羽が地位を奪ったり、劉邦の元で韓信がなったりしている。


及(樊)崇等欲立帝、求軍中景王後者、得七十餘人、唯盆子與茂及前西安侯劉孝最為近屬。崇等議曰「聞古天子將兵稱上將軍」乃書札為符曰「上將軍」
(『後漢書』劉盆子伝)

そしてこんな話が出てきた。
新末の反乱集団が劉氏をくじ引きで皇帝を決めようとした。
その際、そのくじには「上将軍」と書いておいたという。

「古来、天子が兵を率いる時は上将軍と名乗る」からだそうだ。



孫権に勧められた「上将軍」は、一見すると韓信らのような最高司令官的な意味合いに思えるが、実は「天子が兵を率いる際に名乗る号」という意味が込められていたのではなかろうか。



つまり、孫権の群臣の勧める称号の意味するところは、孫権は事実上天子である、ということなのだ。

となると、昨日の記事の「九州伯」も、「中国全土の監督者」という意味なのだろう。
これもまた、ある意味ではほとんど皇帝と変わるところがない。



群臣が孫権に勧めた称号は、魏を認めず形式上は漢の将軍、漢の州伯としながらも、事実上は皇帝と同等の存在であることを示すという大胆なものであったのではないか。