九州伯

江表傳曰、(孫)權群臣議以為宜稱上將軍九州伯、不應受魏封。權曰「九州伯、於古未聞也。昔沛公亦受項羽拜為漢王、此蓋時宜耳、復何損邪?」遂受之。
(『三国志』呉主伝注引『江表伝』)

呉の孫権が魏帝曹丕より封建を受けようとした際、孫権の臣下には「魏の封建を受けるべきではない。上将軍・九州伯を名乗るべきだ」と主張する者がいたらしい。
孫権はそれに対して自ら「漢の高祖だって項羽から封建受けてるんだしいいじゃん」と反論し、封建受諾に踏み切ったのだという。

つまり孫権が魏の封建を受けることには反対も少なくなかったのである。
孫権自らが反論しているところを見ると、当時の孫権臣下では封建反対が優勢だったのかもしれない。



それと、群臣は「上将軍」と「九州伯」を名乗るように勧めている。
「九州伯」は孫権も言うように古来聞いたことがない。


この「九州」が古来の『書経』禹貢にあるような中国全土としての九州なのか、それとも漢の区分によるところの十二とか十三とか州があるうちの九なのか気になるところだ。
前者だとすれば孫権は将軍とはいいながら「中国全土の監督者」だと宣言することになる。

後者だとすれば、どの州をどういう理由で抜いたのだろうか、これはこれで気になる。劉備の勢力圏を外したのだろうか。


更に、「州伯」は『後漢書袁術伝によれば袁術が名乗ったと言われる称号である。
呉の群臣は偽帝袁術の号に対しアレルギー的なものはなかったのだろうか。