『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その48

その47の続き。


六日癸丑、李松・訒曄入長安、將軍趙萌・申屠建亦至、以王憲得璽綬不輒上、多挾宮女、建天子鼓旗、收斬之。傳莽首詣更始、縣宛市、百姓共提撃之、或切食其舌。
莽揚州牧李聖・司命孔仁兵敗山東、聖格死、仁將其衆降、已而歎曰「吾聞食人食者死其事。」拔劍自刺死。及曹部監杜普・陳定大尹沈意・九江連率賈萌皆守郡不降、為漢兵所誅。賞都大尹王欽及郭欽守京師倉、聞莽死、乃降。更始義之、皆封為侯。太師王匡・國將哀章降雒陽、傳詣宛、斬之。
嚴尤・陳茂敗昆陽下、走至沛郡譙、自稱漢將、召會吏民。尤為稱説王莽簒位天時所亡聖漢復興状、茂伏而涕泣。聞故漢鍾武侯劉聖聚衆汝南稱尊號、尤・茂降之。以尤為大司馬、茂為丞相。十餘日敗、尤・茂并死。郡縣皆舉城降、天下悉歸漢。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

六日癸丑、李松・訒曄が長安に入り、将軍趙萌・申屠建もまた長安に至った。彼らは王憲が王莽の璽綬を手に入れながらすぐに報告せず、宮女を数多く我がものとし、天子の旗や太鼓を使った事を理由に王憲を斬った。王莽の首は更始帝の元へ送られ、更始帝のいる宛の市場に掲げられた。王莽の舌を切り取って食べる者もいた。



王莽の揚州牧の李聖、司命の孔仁は山東で敗北し、李聖は接近戦の果てに殺され、孔仁は兵を率いて降伏したが、「人から禄を受けた者はその人のために死ぬと聞く」と嘆き、剣を抜いて自殺した。
曹部監の杜普・陳定大尹の沈意・九江連率の賈萌は郡を守って降伏せず、漢の軍によって誅殺された。
賞都大尹の王欽と(九虎将軍)郭欽は京師倉を守っていたが王莽の死を聞いて降伏した。更始帝は彼らを忠義の士と思い、列侯に封建した。
太師の王匡、国将の哀章は洛陽で降伏し、宛に護送されて斬首となった。



荘尤(厳尤)・陳茂は昆陽において敗北した後に沛郡の譙県に逃げ込み、漢の将軍を自称して官吏や民を集めた。荘尤は王莽が天子の位を簒奪して天に滅ぼされ、聖なる漢王朝が復興した事について述べ、陳茂はひれ伏して泣いた。元の漢の鍾武侯であった劉聖は人を集めて汝南で皇帝を称していたが、荘尤・陳茂は彼に降伏した。劉聖は荘尤を大司馬、陳茂を丞相としたが、十日あまりで敗北し、荘尤・陳茂は共に死亡した。



郡県はどこも城を挙げて漢に降伏し、天下はことごとく漢のものとなった。



王莽タン、食われる。



更始忌伯升威名、遂誅之、以光祿勳劉賜為大司徒。
前鍾武侯劉望起兵、略有汝南。時王莽納言將軍嚴尤・秩宗將軍陳茂既敗於昆陽、往歸之。八月、望遂自立為天子、以尤為大司馬、茂為丞相。王莽使太師王匡・國將哀章守洛陽。更始遣定國上公王匡攻洛陽、西屏大將軍申屠建・丞相司直李松攻武關、三輔震動。是時海内豪桀翕然響應、皆殺其牧守、自稱將軍、用漢年號、以待詔命、旬月之輭、徧於天下。
長安中起兵攻未央宮。九月、東海人公賓就斬王莽於漸臺、收璽綬、傳首詣宛。更始時在便坐黄堂、取視之、喜曰「莽不如是、當與霍光等。」寵姫韓夫人笑曰「若不如是、帝焉得之乎?」更始悦、乃懸莽首於宛城市。
是月、拔洛陽,生縛王匡・哀章、至、皆斬之。十月、使奮威大將軍劉信撃殺劉望於汝南、并誅嚴尤・陳茂。
(『後漢書』列伝第一、劉玄伝)


皇帝を自称したという劉聖は『後漢書』劉玄伝では「劉望」となっている。どちらが正しいかはわからないが、とにかく荘尤らは彼に合流した上で更始帝の軍に敗れた。



また王匡・哀章が処刑されたのは、どうやら降伏といっても実際には軍が破られたためのようだ。たぶんそこが自ら降伏して厚遇された郭欽らと違うのではなかろうか。