『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その5

その4の続き。


皇孫功崇公宗坐自畫容貌、被服天子衣冠。刻印三、一曰「維祉冠存己夏處南山臧薄冰」、二曰「肅聖寶繼」、三曰「徳封昌圖」。又宗舅呂𥶡家前徙合浦、私與宗通、發覺按驗、宗自殺。
莽曰「宗屬為皇孫、爵為上公、知𥶡等叛逆族類、而與交通。刻銅印三、文意甚害、不知厭足、窺欲非望。春秋之義、『君親毋將、將而誅焉。』迷惑失道、自取此辜、烏呼哀哉!宗本名會宗、以制作去二名、今復名會宗。貶厥爵、改厥號、賜諡為功崇繆伯、以諸伯之禮葬于故同穀城郡。」
宗姉妨為衛將軍王興夫人、祝詛姑、殺婢以絶口。事發覺、莽使中常侍䠠綠責問妨、并以責興、皆自殺。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

王莽の孫の功崇公王宗は天子の衣服を着けた自らの肖像画を描かせ、「天子の冠を我が身に着ける福あらんことを。夏には南山で避暑し、薄い氷を貯蔵せん」「厳粛で神聖にして天の予兆を得て後継たらん」「徳によって封建され、予言によって明らかとならん」といった刻印の印を作らせた。また王宗の母の親族である呂寛の親族は先に合浦に配流となっていたが、密かに王宗と文通していた。
それらが発覚して取り調べを受け、王宗は自殺した。



王莽は言った。「王宗は皇孫であり、上公の爵位にありながら、呂寛らが反逆したことを知りながら文通をした。また悪意のある文章を刻んだ銅印を三つ作った。満ち足りるということを知らず、望むべきではないことを得んと欲したのである。『春秋』の考え方によると、「君主や親に対してはこれからするところだった、というのはない。これからしようと考えた時点で誅されるのである」という。道を踏み外して自ら罪を取った。なんと悲しいことか!王宗は本名は王会宗といったが、二文字名を改正するという制度に従っていた。今、名をまた王会宗とする。爵位と称号を格下げして功崇繆伯と改め、伯爵の礼で穀城郡に葬る。」



王宗の姉の妨は衛将軍の王興の夫人となっていたが、姑を呪詛し、奴婢を殺して口封じをした。その事が発覚したため、王莽は中常侍䠠綠に妨を詰問し、また併せて王興も責め立て、どちらも自殺した。


王莽、孫も自殺させる。



王宗(王会宗)・王妨の父は王宇、つまり呂寛事件で自殺を命じられた人物である。当時の王莽の後継ぎは王宇だったので、王宗は「正統後継者の血筋である自分が次の皇帝になるはずだ」と考えるようになったのかもしれない。



衛将軍王興というのは王莽が予言に合わせて立てた人物である。


元は小役人であったという。



王宇の子(王莽の孫)ということはその妻の王妨は当然に王氏、王興も王氏である。同姓不婚に抵触しているようにも思えるが、王莽自身が別の王氏の娘を正妻としているので、たまたま同じ姓を名乗っているだけで血縁上は関係ないからセーフ、と考えていたようだ。