歴代諸侯王制度

後漢の諸侯王は一応は郡と同等(実際には郡未満だが)の領地を支配した。ただし一部の例外を除き仕官はできなかったと思われる。 魏の諸侯王は後漢よりも明らかに狭い領地しか与えられず、かといって仕官もできなかった。司馬氏に軟禁状態にされる前から出来…

ひとこと

真面目な話、後漢の宗室だったと言えそうな劉氏は魏王朝では仕官してないかもしれないな。 劉曄も子孫というだけで宗室ではなかった可能性も無くはないが、彼が特例だった可能性の方が高いんじゃないかと思う。

悪評の原因

劉曄は「佞諛不忠」つまりおべっかクソ野郎みたいに言われることがあったようなのだが、この一因に、魏王朝では漢の宗室は禁錮つまり出仕禁止の措置を受けていたのに彼は堂々出仕している、ということもあったのかもしれない。 アイツは上へのおべっかで漢の…

引き続き

やべえ今日も眠い。 春眠暁を覚えず。冬だけど。

睡魔

諸般の事情から今ものすごく眠い。このまま起きないんじゃないかってくらい眠い。 なので今日も休む。

雪で

雪かきとかしてたため今になって疲れてねみゅい。今日は休み。

長いものには巻かれろ

袁氏世紀曰、(呂)布之破也、陳羣父子時亦在布之軍、見太祖皆拝。(袁)渙獨高揖不為禮、太祖甚嚴憚之。 (『三国志』巻十一、袁渙伝) かの袁渙とあの陳群親子は呂布の元にいたが、呂布が曹操に敗れると彼らも解放された。 その際、陳群親子は曹操に拝礼を…

挙主の死を喜ぶ男

t-s.hatenablog.com かつて劉備が死んだという虚報が流れた時に、かつて劉備に仕え、劉備が挙主でもあった袁渙だけは慶賀しなかった、という話がある(ほぼ同様な境遇だった陳群は慶賀したのだろう)。 及先主薨問至、魏羣臣咸賀、而(黄)權獨否。 (『三国…

諸葛亮の初任官

赤壁後に諸葛亮は「以(諸葛)亮為軍師中郎將、使督零陵・桂陽・長沙三郡、調其賦税、以充軍實。」(『三国志』諸葛亮伝)となったとされる。 それまで官に就いた形跡がないのにこういった職に就けられるというのは大抜擢だ。 よく考えると「郡の督」つまり…

ひとこと

大したことじゃないんだが、沛郡(国)って九江郡と隣接してるんだな。っていうか当初は沛郡所属だった県が後漢ではいくつか九江郡に移管してもいる。 今まで意識してなかった。

廬江太守李術

孫策に従って揚州刺史厳象を殺し、孫権には従わず討伐された廬江太守李術、部曲3万人を有していたのか・・・。 孫権があの赤壁の時に動員した(できた)兵がそれくらいなんだから、当時の孫権にとっては3万人はかなりの規模だったのではないか。 そりゃ孫…

進捗

ゼルダは地底に行けと指示されてから地上をうろうろし続けてる。 地上だけでも結構広いのに、もしかして地底も結構広かったりするのか・・・? この冒険紀行は一生終わらないんじゃないか?(誉め言葉)

先進事例

王莽は漢の元帝に「高宗」、成帝に「統宗」、平帝に「元宗」という廟号を贈っている。 これにより、前漢の皇帝は特別な廟号を持たない者の方が少ない状態になっている。 後の時代に皇帝廟に残らず廟号が贈られるようになるのは、王莽が嚆矢だと言えるのでは…

ひとこと

梁の儒者に「皇侃」という者がいる。 この姓「皇」をもし「おう」と読むなら呉の「皇象」(皇侃の子孫とされる)は「おうしょう」と読むべきだろうし、皇象を「こうしょう」と読むなら皇侃の姓も「こう」と読むべきじゃないだろうか。

生まれる前から滅んでいた

靈帝熹平五年、黄龍見譙。光祿大夫橋玄問太史令單颺曰「此何祥也?」颺曰「其國後當有王者興、不及五十年亦當復見天事恒象、此其徴也。」 (『宋書』巻二十七、符瑞志上) 漢元・成之世、先識之士有言曰「魏年有和、當有開石於西三千餘里、繫五馬、文曰討曹…

愚痴

最近いつも使っている某サイトで右クリックによるコピーペーストができなくなってて面倒・・・。 どうにかならない?無理?

御史から執法

曹魏では「御史」のことを「執法」と改称したらしいと述べたが、同様に「御史」を「執法」と改称した王朝がある。 改郡太守曰大尹、都尉曰太尉、縣令長曰宰、御史曰執法、公車司馬曰王路四門、長樂宮曰常樂室、未央宮曰壽成室、前殿曰王路堂、長安曰常安。 …

進捗

ゼルダ、どうやらパラセールを取らずにカカリコ村に行ってるのはちょっとおかしな順番だったらしい・・・。 道理で道中の敵は強いしやけに遠く感じたし・・・。 やっとパラセールを取った(直後に一度墜落したが)ので、これからはかどると思う。多分。

執法と御史

文帝即王位、賜爵關内侯。及踐阼、為督軍糧御史、封武平亭侯、更為督軍糧執法、入為尚書。 (『三国志』巻二十三、杜襲伝) 及魏、又置治書執法、掌奏劾、而治書侍御史掌律令、二官俱置。 (『晋書』巻二十四、職官志) 『晋書』によれば曹魏では「治書執法…

ひとこと

孫休が息子の名はあれほど気にしていたのに自分の名が「休」という割と避けにくそうな字なのに変更しようとした話が見えないというのは興味深い。 どういう理由、理屈だったんだろう。

心配

2024年は初日から恐ろしい事になった。 それはそれでもちろん心配だが、どうもネッコの調子が悪いかもしれないのも個人的には同程度に心配だ。 行きつけの病院は休みなんだが、明日どこかを受診しようか・・・。

あけまして

気が付けば2024年。今年もよろしく。 去年は明らかにモチベーションが落ちていて適当な1年だったが、きっと今年も去年以上にマイペースな1年になると思う。

ちょっとした疑問

孫休がわが子たちに君だけのオリジナル文字を命名したのは有名だが、その子たちは命名されるまでは何と呼ばれてたんだろうか?

ゆく年(未来への抱負)

今年もあと1日か・・・。 再来年から本気出す。

アルハラ

(孫)晧毎饗宴、無不竟日。 (『三国志』巻六十五、韋曜伝) 呉の孫晧の時の宴会は「午前様」にならなかったことがなかった、のだそうだ。 皇帝陛下の饗宴であって強制参加で抜け出す手段も無いことを考えると、人によってはかなりの苦行だったんじゃないだ…

納め

誤用オサメだか何だかの日になったが、そんな一種の安心感からか少々眠気がある。 おねむなのでお休みする。

誰が殺した周昭恭遠

周昭者字恭遠、與韋曜・薛瑩・華覈並述呉書、後為中書郎、坐事下獄。 (『三国志』巻五十二、步騭伝) 呉にいた周昭という人物は韋昭らとともに『呉書』編纂に携わったが、後に法に触れて獄に入れられ、同僚の助命嘆願にも皇帝は助けることなく、彼は死んで…

裏切りの代償

『三国志』本文においては、孫晧の父孫和の正妻が張氏だということは記されているが、その張氏が生んだ孫俊については存在がぼかされていて、「正妻が生んだ子(嫡子)がいる」ということが隠されていると思われる。 というか『三国志』孫和伝では子の存在に…

休み

もう何だか年末休みになった気分だが、まだ仕事に行かなければいけない・・・。 面倒だが仕方ない。ので、今日の更新は無しで。

孫晧改名

孫和何姫、丹楊句容人也。父遂、本騎士。孫權嘗游幸諸營、而姫觀於道中、權望見異之、命宦者召入、以賜子和。生男、權喜、名之曰彭祖、即晧也。 (『三国志』巻五十、妃嬪伝、孫和何姫) 呉の孫晧は最初に付けられた名は「彭祖」であったらしい。 孫晧字元宗…