孫晧改名

孫和何姫、丹楊句容人也。父遂、本騎士。孫權嘗游幸諸營、而姫觀於道中、權望見異之、命宦者召入、以賜子和。生男、權喜、名之曰彭祖、即晧也
(『三国志』巻五十、妃嬪伝、孫和何姫)


呉の孫晧は最初に付けられた名は「彭祖」であったらしい。

孫晧字元宗、權孫、和子也、一名彭祖、字晧宗。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝)


つまり彼はどこかで「彭祖字晧宗」から「晧字元宗」に改名したことになる。


又曰「聞古天子之名、難知而易諱也。今百姓多上書觸諱以犯罪者、朕甚憐之。其更諱詢、諸觸諱在令前者赦之。」
(『漢書』巻八、宣帝紀、元康二年五月)


この改名は上記の漢宣帝の例と同様だろう。皇帝になるとき、またはなった後に、避諱をする文字を減らすためのものなのではないか。



もしそういうことだとしたら、彼にもそれなりには民のためにという視点を持っていたとは言えよう。本心が漢の事例を参考にした人気取りだとしても。