『三国志』斉王芳紀を読んでみよう:その12

その11(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/05/000100)の続き。





四年春正月癸卯、以撫軍大將軍司馬景王為大將軍。
二月、立皇后張氏、大赦
夏五月、魚二見於武庫屋上。
冬十一月、詔征南大將軍王昶・征東將軍胡遵・鎮南將軍毌丘儉等征呉。
十二月、呉大將軍諸葛恪拒戰、大破衆軍于東關。不利而還。
五年夏四月、大赦
五月、呉太傅諸葛恪圍合肥新城、詔太尉司馬孚拒之。
秋七月、恪退還。
八月、詔曰「故中郎西平郭脩、砥節厲行、秉心不回。乃者蜀將姜維寇鈔脩郡、為所執略。往歳偽大將軍費禕驅率羣衆、陰圖闚𨵦、道經漢壽、請會衆賓、脩於廣坐之中手刃撃禕、勇過聶政、功逾介子、可謂殺身成仁、釋生取義者矣。夫追加褒寵、所以表揚忠義。祚及後胤、所以奬勸將來。其追封脩為長樂郷侯、食邑千戸、諡曰威侯。子襲爵、加拝奉車都尉、賜銀千鉼、絹千匹、以光寵存亡、永垂來世焉。」
自帝即位至于是歳、郡國縣道多所置省、俄或還復、不可勝紀。
(『三国志』巻四、斉王芳紀)

嘉平4年、5年。



呉で孫権が死んだのは嘉平4年に当たる。



(諸葛)恪以建興元年十月會衆於東興、更作大隄、左右結山俠築両城、各留千人、使全端・留略守之、引軍而還。魏以呉軍入其疆土、恥於受侮、命大將胡遵・諸葛誕等率衆七萬、欲攻圍両塢、圖壞隄遏。恪興軍四萬、晨夜赴救。遵等敕其諸軍作浮橋度、陳於隄上、分兵攻両城。城在高峻、不可卒拔。恪遣將軍留贊・呂據・唐咨・丁奉為前部。時天寒雪、魏諸將會飲、見贊等兵少、而解置鎧甲、不持矛戟。但兜鍪刀楯、倮身縁遏、大笑之、不即嚴兵。兵得上、便鼓譟亂斫。魏軍驚擾散走、爭渡浮橋、橋壞絶、自投於水、更相蹈藉。樂安太守桓嘉等同時并沒、死者數萬。故叛將韓綜為魏前軍督、亦斬之。獲車乗牛馬驢騾各數千、資器山積、振旅而歸。
(『三国志』巻六十四、諸葛恪伝)

呉の建興元年、魏の嘉平4年、呉の諸葛恪は堤防を使った水攻めによって魏を大破したとされる。

(諸葛)恪遂有輕敵之心、以十二月戰克、明年春、復欲出軍。諸大臣以為數出罷勞、同辭諫恪、恪不聽。
(『三国志』巻六十四、諸葛恪伝)

 

(建興)二年春正月丙寅、立皇后全氏、大赦
庚午、王昶等皆退。
二月、軍還自東興、大行封賞。三月、(諸葛)恪率軍伐魏。
夏四月、圍新城、大疫、兵卒死者大半。
秋八月、恪引軍還。
冬十月,大饗。武衛將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。
(『三国志』巻四十八、三嗣主伝、孫亮

その戦勝で勢いづいた諸葛恪は続いて合肥を攻めたが失敗し、何の成果も!!得られませんでした!!という状態となる。

そして戻ってきた諸葛恪を待っていたのは暗殺の刃であった。


(延熙)十六年歳首大會、魏降人郭循在坐。(費)禕歡飲沈醉、為循手刃所害。
(『三国志』巻四十四、費禕伝)

蜀漢でも当時の大将軍費禕が魏からの降伏者郭修(郭循)によって殺された。魏では「郭修は降伏しても魏への忠節を忘れず、いにしえの刺客にも劣らぬ壮挙を成し遂げた」といった感じで称揚する。



同じ年に大将軍が2人暗殺されるというシンクロニシティ





「斉王芳即位からこの年まで各地で郡県の廃止や設置が多く、また戻されたところもあった」という話は、思うに曹爽時代に何か変更を加えて司馬氏時代になって戻した、といった事が多かった、という事ではなかろうか。