『三国志』明帝紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/06/000100)の続き。





二年春正月、宣王攻破新城、斬(孟)達、傳其首。分新城之上庸・武陵・巫縣為上庸郡、錫縣為錫郡。
蜀大將諸葛亮寇邊、天水・南安・安定三郡吏民叛應亮。遣大將軍曹真都督關右、並進兵。右將軍張郃撃亮於街亭、大破之。亮敗走、三郡平。
丁未、行幸長安
夏四月丁酉、還洛陽宮。赦繫囚非殊死以下。
乙巳、論討亮功、封爵增邑各有差。
五月、大旱。
六月、詔曰「尊儒貴學、王教之本也。自頃儒官或非其人、將何以宣明聖道?其高選博士、才任侍中常侍者。申敕郡國、貢士以經學為先。」
秋九月、曹休率諸軍至皖、與呉將陸議戰於石亭、敗績。
乙酉、立皇子穆為繁陽王。
庚子、大司馬曹休薨。
冬十月、詔公卿近臣舉良將各一人。
十一月、司徒王朗薨。
十二月、諸葛亮圍陳倉、曹真遣將軍費曜等拒之。
遼東太守公孫恭兄子淵、劫奪恭位、遂以淵領遼東太守。
(『三国志』巻三、明帝紀

太和2年。



諸葛亮が攻め込み3郡が諸葛亮に与するが撃退。


明帝即位、遣南屯荊州、與司馬宣王擊孫權別將劉阿等、追至祁口、交戰、破之。諸葛亮出祁山。加(張)郃位特進、遣督諸軍、拒亮將馬謖於街亭。謖依阻南山、不下據城。郃絶其汲道、撃、大破之。南安・天水・安定郡反應亮、郃皆破平之。
詔曰「賊亮以巴蜀之衆、當虓虎之師。將軍被堅執鋭、所向克定、朕甚嘉之。益邑千戸、并前四千三百戸。」
(『三国志』巻十七、張郃伝)


張郃は当初は荊州方面で孫権と戦ったが諸葛亮登場後に涼州方面に送られ、馬謖を破った。



なお、この時の天水にいたのがかの姜維であり、彼は蜀漢に仕える事となった。



天水というと、以前に馬超の乱で孤立した籠城戦を余儀なくされた地。それ以前の後漢王朝の対応などもあって、中原に対して一種の不信感があってこうなったのではなかろうか。



太和二年、帝為二道征呉、遣司馬宣王從漢水下、(曹)休督諸軍向尋陽。賊將偽降、休深入、戰不利、退還宿石亭。軍夜驚、士卒亂、棄甲兵輜重甚多。休上書謝罪、帝遣屯騎校尉楊暨慰諭、禮賜益隆。休因此癰發背薨。諡曰壯侯。
(『三国志』巻九、曹休伝)

夏五月、鄱陽太守周魴偽叛、誘魏將曹休。秋八月、(孫)權至皖口、使將軍陸遜督諸將大破休於石亭。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、黄武七年)


曹休は呉の周魴の偽投降にひっかかって誘い出されて負けた。かつて黄蓋に痛い目に遭った曹氏だが、こういうのは引っかかってしまうものなのだろうか。




魏王朝としては蜀漢は撃退したが呉には鮮やかに負けた。全体でみるとイーブンか。