『三国志』高貴郷公髦紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/09/000100)の続き。





二年春正月乙丑、鎮東將軍毌丘儉・揚州刺史文欽反。
戊寅、大將軍司馬景王征之。
癸未、車騎將軍郭淮薨。
閏月己亥、破欽于樂嘉。欽遁走、遂奔呉。
甲辰、安風津都尉斬儉、傳首京都。
壬子、復特赦淮南士民諸為儉・欽所詿誤者。以鎮南將軍諸葛誕為鎮東大將軍。司馬景王薨于許昌
二月丁巳、以衛將軍司馬文王為大將軍、録尚書事。
甲子、呉大將孫峻等衆號十萬至壽春、諸葛誕拒撃破之、斬呉左將軍留贊、獻捷于京都。
三月、立皇后卞氏大赦
夏四月甲寅、封后父卞隆為列侯。
甲戌、以征南大將軍王昶為驃騎將軍。
(『三国志』巻四、高貴郷公髦紀)

正元2年前半。



毋丘倹・文欽の反乱。この二人は父が魏武の将であったという共通点がある。


初、(毋丘)儉與夏侯玄・李豐等厚善。揚州刺史前將軍文欽、曹爽之邑人也、驍果麤猛、數有戰功、好增虜獲以徼寵賞、多不見許、怨恨日甚。
儉以計厚待欽、情好歡洽。欽亦感戴、投心無貳。
正元二年正月、有彗星數十丈、西北竟天、起于呉・楚之分。儉・欽喜以為己祥。遂矯太后詔、罪狀大將軍司馬景王、移諸郡國、舉兵反。迫脅淮南將守諸別屯者、及吏民大小、皆入壽春城、為壇於城西、歃血稱兵為盟、分老弱守城、儉・欽自將五六萬衆渡淮、西至項。儉堅守、欽在外為游兵。
(『三国志』巻二十八、毋丘倹伝)

毋丘倹は夏侯玄・李豊、文欽は曹爽と近かったという事なので、彼らと敵対し滅ぼした側である司馬師と上手くやっていけないのも当然と言える。



司馬師は自ら大軍を率いるという初めてと思われる体験を何とかこなしたが、犠牲は大きかった。

初、帝目有瘤疾、使醫割之。(文)鴦之來攻也、驚而目出。懼六軍之恐、蒙之以被、痛甚、齧被敗而左右莫知焉。閏月疾篤、使文帝總統諸軍。辛亥、崩于許昌、時年四十八。
(『晋書』巻二、景帝紀


軍の士気を維持するため自分の親父が飛び出してしまった事を隠し通したが、まあそんな状態で長く生きられる筈もなかった。軍の指揮そのものは父司馬懿ほどではなかったのかもしれないが、命を燃やして司馬氏の権力を掴んで離さなかったのはやはり尋常な働きではない、と言えそうだ。


それに、一気に速戦で終わらせたのは特筆に値するのだろう。2か月かからなかった事になる。これが長引くと呉や蜀漢も動いてきて手に負えなくなっていたかもしれない。




司馬師の率いていた軍は司馬昭が引き継いだ。


この時に裏ではひと悶着あったらしい事は以前に記事に書いている。


ただこの時期の皇帝高貴郷公はまだ15歳くらいのはずなので、もし彼自身が司馬師の権力回収を企んだのだとしたら末恐ろしい政治的センスというヤツではなかろうか。


(五鳳)二年春正月、魏鎮東大將軍毌丘儉・前將軍文欽以淮南之眾西入、戰于樂嘉。
閏月壬辰、(孫)峻及驃騎將軍呂據・左將軍留贊率兵襲壽春、軍及東興、聞欽等敗。
壬寅、兵進于橐皋、欽詣峻降、淮南餘衆數萬口來奔。魏諸葛誕入壽春、峻引軍還。
二月、及魏將軍曹珍遇于高亭、交戰、珍敗績。留贊為誕別將蔣班所敗于菰陂、贊及將軍孫楞・蔣脩等皆遇害。
三月、使鎮南將軍朱異襲安豐、不克。
(『三国志』巻四十八、孫亮伝)


その後の呉の丞相孫峻の動きは、どうやら毋丘倹らに呼応したものらしい。司馬師が時間をかけずに討伐してしまったために本来の目的を果たせなかったのだと思うが、文欽が残党と共に降伏してきたので、それを受け入れて魏との戦いを継続したのだろう。


ちなみに丞相孫峻はまだ30代。司馬師司馬昭より若い。