その19(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/12/000100)の続き。
五年春正月、帝至自淮南、天子使持節勞軍。
尚書鄧颺・李勝等欲令曹爽建立功名、勸使伐蜀。帝止之、不可、爽果無功而還。
六年秋八月、曹爽毀中壘中堅營、以兵屬其弟中領軍羲。帝以先帝舊制禁之、不可。
冬十二月、天子詔帝朝會乗輿升殿。
七年春正月、呉寇柤中、夷夏萬餘家避寇北渡沔。帝以沔南近賊、若百姓奔還、必復致寇、宜權留之。曹爽曰「今不能修守沔南而留百姓、非長策也。」帝曰「不然。凡物致之安地則安、危地則危。故兵書曰『成敗、形也、安危、勢也』。形勢、御衆之要、不可以不審。設令賊以二萬人斷沔水、三萬人與沔南諸軍相持、萬人陸梁柤中、將何以救之?」爽不從、卒令還南。賊果襲破柤中、所失萬計。
(『晋書』巻一、宣帝紀)
司馬懿と曹爽の亀裂、深まる。
司馬懿が対呉方面で功を立てたとなると、曹爽だけが何もしないではいられない、といった焦りが生まれたのかもしれない。
(鄧)颺等欲令(曹)爽立威名於天下、勸使伐蜀、爽從其言、宣王止之不能禁。
正始五年、爽乃西至長安、大發卒六七萬人、從駱谷入。
是時、關中及氐・羌轉輸不能供、牛馬騾驢多死、民夷號泣道路。入谷行數百里、賊因山為固、兵不得進。爽參軍楊偉為爽陳形勢、宜急還、不然將敗。颺與偉爭於爽前、偉曰「颺・(李)勝將敗國家事、可斬也。」爽不悦、乃引軍還。
(『三国志』巻九、曹爽伝)
(延熙)七年閏月、魏大將軍曹爽・夏侯玄等向漢中、鎮北大將軍王平拒興勢圍、大將軍費禕督諸軍往赴救、魏軍退。
(『三国志』巻三十三、後主伝)
曹爽らの蜀漢攻めは大将軍費禕や王平らによって食い止められ、曹爽らは功無く帰還する事となった。蜀漢側は言う程楽勝ではなかったようにも思えるが、魏の損失が大きかったのも間違いないのだろう。
正始7年に記される呉の攻撃は、呉側の記録では朱然の指揮によるもので、「斬獲千余」だったそうだ。『晋書』の方が数字が大きく見えるが、魏から失われたが呉の戦果にもならずにどこかへ逃げて行った者なども多かったという事ではなかろうか。
何にしろ、ここでも曹爽の判断が誤っていた、という事になっている。