『三国志』斉王芳紀を読んでみよう:その11

その10(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/04/000100)の続き。





秋七月壬戌、皇后甄氏崩。
辛未、以司空司馬孚為太尉。
戊寅、太傅司馬宣王薨、以衛將軍司馬景王為撫軍大將軍、録尚書事。
乙未、葬懷甄后於太清陵。
庚子、驃騎將軍孫資薨。
十一月、有司奏諸功臣應饗食於太祖廟者、更以官為次、太傅司馬宣王功高爵尊、最在上。
十二月、以光祿勳鄭沖為司空。
(『三国志』巻四、斉王芳紀)

嘉平3年後半。


悉録魏諸王公置于鄴、命有司監察、不得交關。
天子遣侍中韋誕持節勞軍于五池。帝至自甘城、天子又使兼大鴻臚・太僕庾嶷持節、策命帝為相國、封安平郡公、孫及兄子各一人為列侯、前後食邑五萬戸、侯者十九人。固讓相國・郡公不受。
六月、帝寢疾。夢賈逵・王淩為祟、甚惡之。
秋八月戊寅、崩於京師、時年七十三。天子素服臨弔、喪葬威儀依漢霍光故事、追贈相國・郡公。弟孚表陳先志、辭郡公及轀輬車。
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿、死す。



王淩・楚王彪の乱の後、王・公は鄴に集められて監視され、軟禁生活を送る事となった。楚王彪のように皇帝に立てられそうになる者がいては困るという事だ。各種記述を見る限り楚王自身も満更でもなかったようだし。



また司馬懿は生前は相国と郡公、死後も郡公の地位を贈られるのを辞退している。という事は死後の相国追贈は受けたのか。



数え73歳で病身を押して命がけで王淩の元へ駆け付けた、という事なのだろうか。





司馬懿の長男司馬師が既に衛将軍になっており、司馬懿が死ぬと撫軍大将軍・録尚書事となって事実上司馬懿の権力を継ぐ事となった。



官職や権限は親から子へと相続するものではないが、後漢末にも丞相という最高権力者の官職と権限を親から子へと事実上相続した例があるので、同じようにしただけとも言える。




といっても、前後して司馬懿の弟司馬孚が太尉になっているので、実際にはこの二人で司馬懿の権限を分けて受け継いだような感じなのかもしれない。