『三国志』斉王芳紀を読んでみよう:その13

その12(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/06/000100)の続き。





六年春二月己丑、鎮東將軍毌丘儉上言「昔諸葛恪圍合肥新城、城中遣士劉整出圍傳消息、為賊所得、考問所傳、語整曰『諸葛公欲活汝、汝可具服。』整罵曰『死狗、此何言也!我當必死為魏國鬼、不苟求活、逐汝去也。欲殺我者、便速殺之。』終無他辭。又遣士鄭像出城傳消息、或以語恪、恪遣馬騎尋圍跡索、得像還。四五人靮頭面縛、將繞城表、勑語像、使大呼、言『大軍已還洛、不如早降。』像不從其言、更大呼城中曰『大軍近在圍外、壯士努力!』賊以刀築其口、使不得言、像遂大呼、令城中聞知。整・像為兵、能守義執節、子弟宜有差異。」詔曰「夫顯爵所以褒元功、重賞所以寵烈士。整・像召募通使、越蹈重圍、冒突白刃、輕身守信、不幸見獲、抗節彌厲、揚六軍之大勢、安城守之懼心、臨難不顧、畢志傳命。昔解楊執楚、有隕無貳、齊路中大夫以死成命、方之整・像、所不能加。今追賜整・像爵關中侯、各除士名、使子襲爵、如部曲將死事科。」
庚戌、中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣、以太常夏侯玄為大將軍。事覺、諸所連及者皆伏誅。
辛亥、大赦
三月、廢皇后張氏。
夏四月、立皇后王氏、大赦
五月、封后父奉車都尉王夔為廣明郷侯・光祿大夫、位特進、妻田氏為宣陽郷君。
秋九月、大將軍司馬景王將謀廢帝、以聞皇太后
甲戌、太后令曰「皇帝芳春秋已長、不親萬機、耽淫内寵、沈漫女徳、日延倡優、縱其醜謔。迎六宮家人留止内房、毀人倫之敍、亂男女之節。恭孝日虧、悖慠滋甚、不可以承天緒、奉宗廟。使兼太尉高柔奉策、用一元大武告于宗廟、遣芳歸藩于齊、以避皇位。」是日遷居別宮、年二十三。使者持節送衛、營齊王宮於河内之重門、制度皆如藩國之禮。
丁丑、令曰「東海王霖、高祖文皇帝之子。霖之諸子、與國至親、高貴郷公髦有大成之量、其以為明皇帝嗣。」
(『三国志』巻四、斉王芳紀)

嘉平6年。



中書令李豊と皇后の父張緝という皇帝に近い立場の2人が大将軍を司馬師から夏侯玄にチェンジしようと計画したが失敗。



なお李豊の子は公主と結婚しており、また司馬師とも親交があったという。また、張緝は張既の子である。


嘉平六年二月、當拝貴人、(李)豐等欲因御臨軒、諸門有陛兵、誅大將軍、以(夏侯)玄代之、以(張)緝為驃騎將軍。
・・・(中略)・・・
大將軍微聞其謀、請豐相見、豐不知而往、即殺之。
・・・(中略)・・・
初、中領軍高陽許允與豐・玄親善。先是有詐作尺一詔書、以玄為大將軍、允為太尉、共録尚書事。有何人天未明乗馬以詔版付允門吏、曰「有詔」、因便馳走。允即投書燒之、不以開呈司馬景王。
(『三国志』巻九、夏侯玄伝)

李豊らの企みは、どうやら許允の日和見司馬師の情報網のために失敗したようだ。



司馬師は李豊、夏侯玄(最初の正妻夏侯氏の兄)といった身近な者に裏切られるという危機を乗り切り、ついに皇帝の廃位をも行う。


斉王芳自身の資質に問題があった可能性もあるが、李豊・張緝らの件で斉王芳の恨みを買った司馬師が、このままにしておけば斉王芳に逆襲されるという危機感を覚えたのであろう。まあ、そもそも実権を権臣に握られた皇帝サイドが権臣を排除しようとするというのは、梁冀や魏武の時にもあった事である。この時の司馬師はやられたらやり返せの精神だったのだろう。



斉王芳紀はここまでになる。