『三国志』斉王芳紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/02/000100)の続き。





二年夏五月、以征西將軍郭淮為車騎將軍。
冬十月、以特進孫資為驃騎將軍。
十一月、司空孫禮薨。
十二月甲辰、東海王霖薨。
乙未、征南將軍王昶渡江、掩攻呉、破之。
(『三国志』巻四、斉王芳紀)


嘉平2年。



孫資はまた驃騎将軍に。孫資は曹爽排除後にまた侍中・領中書令となっている。劉放はこの年に死んでいるので、おそらく体調が優れない状態だったため復帰しなかったのだろう。そして劉放の死後、孫資は驃騎将軍となっている。


やはり、劉放・孫資の辞任は曹爽が関わっていたのだろう。



(赤烏十三年)冬十月、魏將文欽偽叛以誘朱異、(孫)權遣呂據就異以迎欽。異等持重、欽不敢進。
十一月、立子亮為太子。遣軍十萬、作堂邑涂塘以淹北道。
十二月、魏大將軍王昶圍南郡、荊州刺史王基攻西陵、遣將軍戴烈・陸凱往拒之、皆引還。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)


王昶らによる呉への攻撃は、呉側では防衛に成功したという風な書かれ方をしている。魏も呉もどちらも自分の側を良く見せようとしているというところか。

(嘉平)二年、(王)昶奏「孫權流放良臣、適庶分爭、可乗釁而制呉・蜀。白帝・夷陵之間、黔・巫・秭歸・房陵皆在江北、民夷與新城郡接、可襲取也。」乃遣新城太守州泰襲巫・秭歸・房陵、荊州刺史王基詣夷陵、昶詣江陵、両岸引竹絙為橋、渡水撃之。賊奔南岸、鑿七道並來攻。於是昶使積弩同時倶發、賊大將施績夜遁入江陵城、追斬數百級。昶欲引致平地與合戰、乃先遣五軍案大道發還、使賊望見以喜之、以所獲鎧馬甲首、馳環城以怒之、設伏兵以待之。績果追軍、與戰、克之。績遁走、斬其將鍾離茂・許旻、收其甲首旗鼓珍寶器仗、振旅而還。
(『三国志』巻二十七、王昶伝)


王昶は孫権が呉の政治を混乱させている(いわゆる二宮事件を指しているのだろう)のを好機と見て攻めたそうだ。なおこの時の王昶は征南将軍・仮節・都督荊予諸軍事である。