『晋書』文帝紀を読んでみよう:その5

その4(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/16/000100)の続き。





二年夏五月辛未、鎮東大將軍諸葛誕殺揚州刺史樂綝、以淮南作亂、遣子靚為質於呉以請救。
議者請速伐之、帝曰「誕以毋丘儉輕疾傾覆、今必外連呉寇、此為變大而遲。吾當與四方同力、以全勝制之。」乃表曰「昔黥布叛逆、漢祖親征、隗囂違戻、光武西伐、烈祖明皇帝乗輿仍出。皆所以奮揚赫斯、震耀威武也。陛下宜暫臨戎、使將士得憑天威。今諸軍可五十萬、以衆撃寡、蔑不克矣。」
秋七月、奉天子及皇太后東征、徴兵青・徐・荊・豫、分取關中遊軍、皆會淮北。師次于項、假廷尉何楨節、使淮南、宣慰將士、申明逆順、示以誅賞。
甲戌、帝進軍丘頭。呉使文欽・唐咨・全端・全懌等三萬餘人來救誕、諸將逆撃、不能禦。將軍李廣臨敵不進、泰山太守常時稱疾不出、並斬之以徇。
(『晋書』巻二、文帝紀

諸葛誕、反乱。



彼は司馬氏との間に婚姻関係があったりしたので、司馬昭としてはなかなかの衝撃だったのではなかろうか。



司馬昭は皇帝(高貴郷公)と皇太后を連れて討伐へ行く事にした。



思うに、司馬氏から軍権を奪おうとしていた事から、後方に置いておく方が危険と司馬昭は判断したのだろう。


(諸葛)誕既與(夏侯)玄、(鄧)颺等至親、又王淩・毌丘儉累見夷滅、懼不自安、傾帑藏振施以結衆心、厚養親附及揚州輕俠者數千人為死士。
甘露元年冬、呉賊欲向徐堨、計誕所督兵馬足以待之、而復請十萬衆守壽春、又求臨淮築城以備寇、内欲保有淮南。朝廷微知誕有自疑心、以誕舊臣、欲入度之。
二年五月、徴為司空。誕被詔書、愈恐、遂反。召會諸將、自出攻揚州刺史樂綝、殺之。
(『三国志』巻二十八、諸葛誕伝)

元より危機感を抱いて密かに「万が一の時」の備えをしていた諸葛誕は、それを察知した朝廷(=司馬昭や賈充ら)が三公にして召還しようとした事で反乱を起こした。賈充は「召還しても来ないでしょうが、今の内なら反乱しても害が少なく、遅くなる方が害が大きくなります」と言ったと伝わる(『三国志諸葛誕伝注引『世語』)。




呉からは文欽や唐咨が来た。


唐咨は魏初にあった徐州の反乱の際に呉へ逃げて出世した人物。呉では割と実戦に参加している。たぶん、水軍の指揮に長けていたのではないかと思う。


曹爽誅後、進(文)欽為前將軍以安其心、後代諸葛誕為揚州刺史。自曹爽之誅、欽常内懼、與諸葛誕相惡、無所與謀。
(『三国志』巻二十八、毋丘倹伝注引『魏書』)


文欽は諸葛誕とすこぶる不仲であったというのですが、この援軍大丈夫ですかね・・・?