『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その19

その18(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/11/000100)の続き。





三年春、天子追封諡皇考京兆尹為舞陽成侯。
三月、奏穿廣漕渠、引河入汴、溉東南諸陂、始大佃於淮北。
先是、呉遣將諸葛恪屯皖、邊鄙苦之、帝欲自撃恪。議者多以賊據堅城、積穀、欲引致官兵。今懸軍遠攻、其救必至、進退不易、未見其便。帝曰「賊之所長者水也、今攻其城、以觀其變。若用其所長、棄城奔走、此為廟勝也。若敢固守、湖水冬淺、船不得行、勢必棄水相救、由其所短、亦吾利也。」
四年秋九月、帝督諸軍撃諸葛恪、車駕送出津陽門。軍次於舒、恪焚燒積聚、棄城而遁。
帝以滅賊之要、在於積穀、乃大興屯守、廣開淮陽・百尺二渠、又修諸陂於潁之南北、萬餘頃。自是淮北倉庾相望、壽陽至於京師、農官屯兵連屬焉。
(『晋書』巻一、宣帝紀


司馬懿、呉へ進軍。呉の諸葛恪は逃げた。


なかなかフットワークが軽い。

是歳、司馬宣王率軍入舒、諸葛恪自皖遷于柴桑。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、赤烏6年)


三国志』斉王芳紀には言及が無いように見えるが、呉主伝の方では司馬懿の事績が記されている。



後漢書孝献帝紀が後半になると朝廷に直接関わる事しか書かれなくなる事を思い出す。





そして対呉方面での生産力拡大を図ったとの事。対蜀漢でも似たような事をしていた気がする。


司馬懿以外も多くの者が同じような事は考えていたとは思うが、司馬懿はそこに今まで以上にリソースを割く決定を出来たというところだろうか。


あるいは、先帝が土木工事等に振り分けていたリソースをそちらに向けた、という事かもしれない。