『三国志』明帝紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/14/000100)の続き。





二年春二月乙未、太白犯熒惑。
癸酉、詔曰「鞭作官刑、所以糾慢怠也、而頃多以無辜死。其減鞭杖之制、著于令。」
三月庚寅、山陽公薨。帝素服發哀、遣使持節典護喪事。
己酉、大赦
夏四月、大疫。崇華殿災。
丙寅、詔有司以太牢告祠文帝廟。
追諡山陽公為漢孝獻皇帝、葬以漢禮。
是月、諸葛亮出斜谷、屯渭南、司馬宣王率諸軍拒之。詔宣王「但堅壁拒守以挫其鋒、彼進不得志、退無與戰、久停則糧盡、虜略無所獲、則必走矣。走而追之、以逸待勞、全勝之道也。」
五月、太白晝見。
孫權入居巢湖口向合肥新城、又遣將陸議・孫韶各將萬餘人入淮・沔。
六月、征東將軍満寵進軍拒之。寵欲拔新城守、致賊壽春。帝不聽、曰「昔漢光武遣兵縣據略陽、終以破隗囂、先帝東置合肥、南守襄陽、西固祁山、賊來輒破於三城之下者、地有所必爭也。縱權攻新城、必不能拔。敕諸將堅守、吾將自往征之、比至、恐權走也。」
(『三国志』巻三、明帝紀

青竜2年。



どうやら魏ではこれまで怠慢を糾すために命に関わるほどムチ打ちが行われていたようだ。つまり刑事犯に対する刑罰ではなく、「弱い罪、覚えない罪、手間を取らせる罪、イラつかせる罪」といった者に対してムチ打ちしていた事になる。もちろん、魏だけとは限らないが。


太祖性嚴、掾屬公事、往往加杖。(何)夔常畜毒藥、誓死無辱、是以終不見及。
(『三国志』巻十二、何夔伝)


もしかすると、この何夔の粉砕バットのエピソードも「鞭作官刑、所以糾慢怠也」の一つだったのかもしれない。




蜀漢からは諸葛亮が出撃し、呉からは孫権陸遜が出撃する。


夏五月、(孫)權遣陸遜諸葛瑾等屯江夏・沔口、孫韶・張承等向廣陵・淮陽、權率大衆圍合肥新城。是時蜀相諸葛亮出武功、權謂魏明帝不能遠出、而帝遣兵助司馬宣王拒亮、自率水軍東征。未至壽春、權退還、孫韶亦罷。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、嘉禾三年)


孫権諸葛亮の動向を見て攻勢を取ったように思われる。当初から蜀呉連携した作戦だったかもしれない。





烈祖様は対諸葛亮司馬懿に対しては専守防衛を指示し、自らは対呉戦線に乗り込む。




青龍中、山陽公薨、漢主也。
(王)肅上疏曰「昔唐禪虞、虞禪夏、皆終三年之喪、然後踐天子之尊。是以帝號無虧、君禮猶存。今山陽公承順天命、允答民望、進禪大魏、退處賓位。公之奉魏、不敢不盡節。魏之待公、優崇而不臣。既至其薨、櫬斂之制、輿徒之飾、皆同之於王者、是故遠近歸仁、以為盛美。且漢總帝皇之號、號曰皇帝。有別稱帝、無別稱皇、則皇是其差輕者也。故當高祖之時、土無二王、其父見在而使稱皇、明非二王之嫌也。況今以贈終、可使稱皇以配其諡。」明帝不從使稱皇、乃追諡曰漢孝獻皇帝。
(『三国志』巻十三、王粛伝)


そんな中、山陽公すなわち献帝が死去。その諡号については議論があったらしく、王粛は「皇と帝では帝の方が重要なので、山陽公は皇と称するべき」と述べたが、烈祖様はそれに従わず、孝献皇帝という諡号を贈った。