『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その22

その21(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/14/000100)の続き。





嘉平元年春正月甲午、天子謁高平陵、(曹)爽兄弟皆從。
是日、太白襲月。帝于是奏永寧太后廢爽兄弟。
時景帝為中護軍、將兵屯司馬門。帝列陣闕下、經爽門。爽帳下督嚴世上樓、引弩將射帝、孫謙止之曰「事未可知。」三注三止、皆引其肘不得發。
大司農桓範出赴爽、蔣濟言於帝曰「智囊往矣。」帝曰「爽與範内疏而智不及、駑馬戀短豆、必不能用也。」於是假司徒高柔節、行大將軍事、領爽營、謂柔曰「君為周勃矣。」命太僕王觀行中領軍、攝羲營。帝親帥太尉蔣濟等勒兵出迎天子、屯于洛水浮橋、上奏曰「先帝詔陛下・秦王及臣升於御牀、握臣臂曰『深以後事為念』。今大將軍爽背棄顧命、敗亂國典、内則僭擬、外專威權。羣官要職、皆置所親。宿衛舊人、並見斥黜。根據槃互、縱恣日甚。又以黄門張當為都監、專共交關、伺候神器。天下洶洶、人懷危懼。陛下便為寄坐、豈得久安?此非先帝詔陛下及臣升御牀之本意也。臣雖朽邁、敢忘前言。昔趙高極意、秦是以亡。呂・霍早斷、漢祚永延。此乃陛下之殷鑒、臣授命之秋也。公卿羣臣皆以爽有無君之心、兄弟不宜典兵宿衛。奏皇太后、皇太后敕如奏施行。臣輒敕主者及黄門令罷爽・羲・訓吏兵、各以本官侯就第。若稽留車駕、以軍法從事。臣輒力疾將兵詣洛水浮橋、伺察非常。」爽不通奏、留車駕宿伊水南、伐樹為鹿角、發屯兵數千人以守。
桓範果勸爽奉天子幸許昌、移檄徴天下兵。爽不能用、而夜遣侍中許允・尚書陳泰詣帝、觀望風旨。帝數其過失、事止免官。泰還以報爽、勸之通奏。帝又遣爽所信殿中校尉尹大目諭爽、指洛水為誓、爽意信之。桓範等援引古今、諫説萬端、終不能從、乃曰「司馬公正當欲奪吾權耳。吾得以侯還第、不失為富家翁。」範拊膺曰「坐卿、滅吾族矣!」遂通帝奏。
既而有司劾黄門張當、并發爽與何晏等反事、乃收爽兄弟及其黨與何晏・丁謐・鄧颺・畢軌・李勝・桓範等誅之。
蔣濟曰「曹真之勳、不可以不祀。」帝不聽。
初、爽司馬魯芝・主簿楊綜斬關奔爽。及爽之將歸罪也、芝・綜泣諫曰「公居伊周之任、挾天子、杖天威、孰敢不從?舍此而欲就東市、豈不痛哉!」有司奏收芝・綜科罪、帝赦之、曰「以勸事君者。」
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿のクーデター、成功。



司馬懿は最初は曹爽らが主君を敬わないため罷免するべきとの上奏を上げたが、その上奏を皇帝に通す(決裁させる)かどうかは事実上は曹爽が決定するため、曹爽が皇帝と共にある中では普通は通るものではない。


だが、曹爽らの持つ兵を接収し、司馬懿自ら兵を率いる事で脅すと共に、これ以上はやらないという逃げ道も暗に用意する事で曹爽に折れる事を強要した。



しかし、結局は取り調べた一味張当からもっとヤバい罪状(大逆という事だろう)が出てきたという事で、一転して処刑される事になったのである。


まあ、ここまで全部司馬懿らの計画の一部だったのだろう。それが読めていたから桓範は徹底抗戦を主張したのだろうし、許昌に行く事に成功していればどうなったかも分からないだろうが、そこは財産は保全されると思わせた司馬懿の勝ちだ。


曹爽と司馬師は夏侯玄を通して縁戚関係にあるし、おそらく他にも司馬氏一党と曹爽の間には何らかの姻戚関係があっただろうから、司馬懿から見てそういう関係でもある自分たちが罷免はともかく断罪されはしないはずだ、といった計算が曹爽にもあったのではなかろうか。



だが、遼東で撫で斬りを敢行した人物は甘くなかった。