放棄の是非

(建安)二十五年春正月、曹公薨、太子丕代為丞相魏王、改年為延康。秋、魏將梅敷使張儉求見撫納。南陽陰・酇・筑陽・山都・中盧五縣民五千家來附。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)


昨日の話で出した建安25年(延康元年、黄初元年)の話。



孫権の元に「梅敷」なる魏将が恭順を示してきたとなっている。


襄陽記曰、柤音如租稅之租。柤中在上黄界、去襄陽一百五十里。魏時夷王梅敷兄弟三人、部曲萬餘家屯此、分布在中廬宜城西山鄢・沔二谷中、土地平敞、宜桑麻、有水陸良田、沔南之膏腴沃壤、謂之柤中。
(『三国志』巻五十六、朱然伝注引『襄陽記』)

梅敷というのは、どうやら沔水流域にいる「夷王」であるらしい。



という事は、この「夷王」の恭順を見て、その周辺の諸県も孫権になびいた、という事だろうか。



魏文帝即位、封河津亭侯、轉丞相長史。
會孫權帥兵西過、朝議以樊・襄陽無穀、不可以禦寇。曹仁鎮襄陽、請召仁還宛。帝曰「孫權新破關羽、此其欲自結之時也、必不敢為患。襄陽水陸之衝,禦寇要害,不可棄也。」言竟不從。仁遂焚棄二城、權果不為寇、魏文悔之。
(『晋書』巻一、宣帝紀

及即王位、拝(曹)仁車騎將軍、都督荊・揚・益州諸軍事、進封陳侯、增邑二千、并前三千五百戸。追賜仁父熾諡曰陳穆侯、置守冢十家。
後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽、詔仁討之。仁與徐晃攻破邵、遂入襄陽、使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北、文帝遣使即拝仁大將軍。
(『三国志』巻九、曹仁伝)


ではなぜ夷王梅敷や沔水流域は孫権になびいたか。



思うに、上記の通り延康元年頃に曹丕は襄陽・樊の放棄と曹仁の宛への退去を決めている。


つまり襄陽近辺、沔水流域における曹氏の圧力が消えたわけで、そこで孫権の軍が襄陽入りしたとあれば、沔水周辺は劉備側である漢中と孫権とに挟まれて曹氏から孤立することになるので、孫権に従うしかなくなったのではないだろうか。




その後、孫権劉備を破り、いよいよ孫権による蜀攻めが現実味を帯びてくる。そうなると曹丕の方が焦らざるを得ず(孫権が強くなりすぎる)、孫権への融和政策を放棄し、せっかく弱まった蜀漢攻めよりも孫権との全面対決を優先しなくてはならなくなった、というところなのだろうか・・・?




そうなると、魏にとって襄陽放棄はやはり良くなかったのでは、という事になるのかもしれない。