『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その56

その55(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/13/000100)の続き。





七年冬十月、上自征太原匈奴
冒頓單于拒漢、漢使者闚匈奴者十輩、皆曰易撃。上使婁敬往、還曰、匈奴見羸弱、似有伏兵。不可撃。上怒曰、齊虜妄言阻吾軍。械繫之。上至平城、匈奴果圍上於白登七日、用陳平謀、説匈奴閼氏夫人、得開圍一角、上乃遁出。其計祕、世莫得聞也。士卒歌之曰、平城之下禍甚苦、七日不食不能彎弓弩。
上既還、謝敬曰、不用公言以困平城。乃斬前使者十餘輩。封敬二千戸、號建信侯。
先是有月暈圍于昴參畢七重。本志以為昴畢之閒、為天街北羌胡也、街南中國也、昴為匈奴、畢為邊兵、平城之應云。
匈奴攻代、代王喜棄國歸洛陽、廢為郃陽侯。辛卯立皇子如意為代王。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)


劉邦匈奴にこっぴどくやられるの巻。

是時漢初定中國、徙韓王信於代、都馬邑。匈奴大攻圍馬邑、韓王信降匈奴匈奴得信、因引兵南踰句注、攻太原、至晉陽下。高帝自將兵往撃之。
會冬大寒雨雪、卒之墮指者十二三、於是冒頓詳敗走、誘漢兵。漢兵逐撃冒頓、冒頓匿其精兵、見其羸弱、於是漢悉兵、多步兵、三十二萬、北逐之。高帝先至平城、歩兵未盡到、冒頓縱精兵四十萬騎圍高帝於白登、七日、漢兵中外不得相救餉。匈奴騎、其西方盡白馬、東方盡青駹馬、北方盡烏驪馬、南方盡騂馬。高帝乃使使閒厚遺閼氏、閼氏乃謂冒頓曰「両主不相困。今得漢地、而單于終非能居之也。且漢王亦有神、單于察之。」冒頓與韓王信之將王黄・趙利期、而黄・利兵又不來、疑其與漢有謀、亦取閼氏之言、乃解圍之一角。
於是高帝令士皆持満傅矢外郷、從解角直出、竟與大軍合、而冒頓遂引兵而去。漢亦引兵而罷、使劉敬結和親之約。
(『史記』巻一百十、匈奴列伝)

劉邦匈奴冒頓単于の誘いに乗ってしまい、引き離され孤立したという事らしい。間違いなく危機一髪だったわけだが、韓信(韓王信)の将が来なかった事と、匈奴単于の閼氏(単于の正妻)に賄賂を贈って取りなしてもらった事から九死に一生を得た。



単于としても、閼氏が言うようにここで劉邦を殺した所で中原を支配できるわけではないから、有利な条件で和睦しておく方が得である、と判断したのだろう。




なお、劉邦の兄である代王劉喜は匈奴が攻めてきた時に国を捨てて逃げたため、王位を剥奪されて列侯に格下げされた。その代わりに劉邦の子である劉如意が代王となった。


劉邦の子が王になるのは斉王に続いて2人目である。