『史記』項羽本紀を読んでみよう:その30

その29(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180918/1537196692)の続き。





漢軍滎陽、築甬道屬之河、以取敖倉粟。
漢之三年、項王數侵奪漢甬道、漢王食乏、恐、請和、割滎陽以西為漢。項王欲聽之。
歴陽侯范筯曰「漢易與耳、今釋弗取、後必悔之。」項王乃與范筯急圍滎陽。漢王患之、乃用陳平計輭項王。項王使者來、為太牢具、舉欲進之。見使者、詳驚愕曰「吾以為亞父使者、乃反項王使者。」更持去、以惡食食項王使者。使者歸報項王、項王乃疑范筯與漢有私、稍奪之權。范筯大怒曰「天下事大定矣、君王自為之。願賜骸骨歸卒伍。」項王許之。
行未至彭城、疽發背而死。
(『史記』巻七、項羽本紀)


滎陽で対峙する劉邦項羽。だが、項羽の攻撃によって危機に瀕した劉邦は講和しようとする。




だがそれを范増が止める。前から范増は対劉邦強硬派だったのである。



其後、楚急攻、絶漢甬道、圍漢王於滎陽城。久之、漢王患之、請割滎陽以西以和。項王不聽。
漢王謂陳平曰「天下紛紛、何時定乎?」陳平曰「項王為人、恭敬愛人、士之廉節好禮者多歸之。至於行功爵邑、重之、士亦以此不附。今大王慢而少禮、士廉節者不來。然大王能饒人以爵邑、士之頑鈍嗜利無恥者亦多歸漢。誠各去其両短、襲其両長、天下指麾則定矣。然大王恣侮人、不能得廉節之士。顧楚有可亂者、彼項王骨鯁之臣亞父・鍾離眛・龍且・周殷之屬、不過數人耳。大王誠能出捐數萬斤金、行反輭、輭其君臣、以疑其心、項王為人意忌信讒、必内相誅。漢因舉兵而攻之、破楚必矣。」漢王以為然、乃出黄金四萬斤與陳平、恣所為、不問其出入。
陳平既多以金縱反輭於楚軍、宣言諸將鍾離眛等為項王將、功多矣、然而終不得裂地而王、欲與漢為一、以滅項氏而分王其地。項羽果意不信鍾離眛等。項王既疑之、使使至漢。漢王為太牢具、舉進。見楚使、即詳驚曰「吾以為亞父使、乃項王使!」復持去、更以惡草具進楚使。楚使歸、具以報項王。項王果大疑亞父。亞父欲急攻下滎陽城、項王不信、不肯聽。亞父聞項王疑之乃怒曰「天下事大定矣、君王自為之!願請骸骨歸!」歸未至彭城、疽發背而死。
(『史記』巻五十六、陳丞相世家)

劉邦の参謀陳平はそんな范増や他の将たちが項羽に背こうとしているという噂を流し、更には劉邦が范増自身の使者を項羽の使者よりも厚遇するという態度を見せる事で、項羽の范増への疑心を更に強めた。



項羽にとって范増は最初から部下だったわけではない(項梁の元に集った者の一人なので、項羽とは本来同格以上の存在だったとも言えるし、劉邦とも同格だったとも言える)し、「亜父」という号からすると、むしろ尊崇すべき存在という意味合いがあったのだろう。



なので、劉邦が范増をより上位に扱おうというのも、范増が独自に劉邦に使者を出しているかもしれないというのも、あり得る話であり、かつ項羽の現在の立場的に認められないものだったのだろう。



見え透いているようではあるが、項羽からすれば自分の権威の上ではそのままにしておけない話だったのかもしれない。





しかし范増はそんな項羽の態度に怒って項羽の元を離れたが、帰国の途上で病死したという。




かくして、劉邦は最大の対劉邦強硬派を排除する事に成功した。




ただし、これは項羽劉邦を包囲している間の事であり、まだ包囲が解けたり劉邦が脱出に成功したりしたわけではない。



劉邦はいまだピンチのままなのである。