建武初、彭寵反畔於漁陽、單于與共連兵、因復權立盧芳、使入居五原。光武初、方平諸夏、未遑外事。至六年、始令歸徳侯劉颯使匈奴、匈奴亦遣使來獻、漢復令中郎將韓統報命、賂遺金幣、以通舊好。而單于驕踞、自比冒頓、對使者辭語悖慢、帝待之如初。
(『後漢書』列伝第七十九、南匈奴列伝)
後漢の最初期、後漢は内地の争いを優先して匈奴に対して融和政策を取ったようだ。
その際、かの帰徳侯劉颯が匈奴への使者になったという。
以前の記事でも書いたように、元匈奴人であったためなのだろう。
ところで・・・。
『漢書』景武昭宣元成功臣表ではこの時期の帰徳侯は劉諷(=劉颯)ではないと記す。
以前記事にした更始帝政権の時は劉颯は生きていた事になるが、建武6年頃と思われる後漢の使者になったのは劉諷(=劉颯)ではなく後継ぎの劉襄だったのだろうか。
帰徳侯が使者になるのがその血筋ゆえだとすれば、代替わりしても役割を引き継ぐのは不思議ではない。
余談だが、劉諷(=劉颯)は列侯になって56年生きたようで、成帝・哀帝・平帝・王莽・更始帝の世を生き延び続けたらしい。更始帝の時に匈奴の使者になったのは何歳の頃だったんだろうか。