『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その8

その7(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181030/1540825738)の続き。





沛公二年冬十月、秦將圍沛公於豐、出與戰敗之。
十一月、沛公引兵之薛、令雍齒守豐。趙將李良為章邯所招、遂叛、以兵襲武臣。武臣死、張耳・陳餘出走。
十二月、陳勝之御莊賈殺陳勝以降秦。楚人葬之碭、諡曰隠王。勝故中涓人呂臣復收餘兵攻陳、以殺莊賈。是時勝先令將軍秦嘉掠地。及勝死、嘉立景駒為楚王。
初、勝嘗與人傭耕、相謂曰、富貴無相忘。耕者笑曰、汝今傭耕、何富貴也。勝曰、鷰雀安知鴻鵠之志哉。及勝為王、耕者叩門曰、吾欲見渉。勝見之、出入輕慢、益發舒勝貧賤故情、毀傷威重、勝斬之。故人皆棄而去。由是無親勝者。以朱房為中正、胡武為司過、以苛察為忠、而勝任之。是故諸將不親附。此其所以亡也。
雍齒以豐叛降于魏。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第一)

沛公劉邦、秦の側の泗川郡守らと戦い、それを退ける。『史記』高祖本紀などによると泗川郡守を捕えているという。




その一方で、かの有名な雍歯の離反が起こる。


陳王使魏人周市略地。周市使人謂雍齒曰「豐、故梁徙也。今魏地已定者數十城。齒今下魏、魏以齒為侯守豐。不下、且屠豐。」雍齒雅不欲屬沛公、及魏招之、即反為魏守豐。沛公引兵攻豐、不能取。
(『史記』巻八、高祖本紀)


陳勝の忠臣で魏を平定して回っていた周市が雍歯を誘ったものであるらしい。



実際には雍歯が離反したというよりは劉邦が切り捨てられたという事だろう。当然ながら、豊を守るためにも戦っていたはずの劉邦からすれば酷い話であり、劉邦が恨み続けるのも仕方ない。





そして、陳勝が殺される。半年ほどの活動であったが、この時代に与えた影響力は絶大である。