『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その57

その56(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/14/000100)の続き。





春二月、上自平城還。
見蕭何治宮室於長安甚盛、上怒曰、何治之過度。對曰、天子以四海為家、非壯麗無以重皇威。且無令後世有以過也。乃遷都長安
是時威儀未設、群臣爭功醉呼、或拔劍擊柱、上患之。博士叔孫通請制禮儀。上曰、度吾所能行者。通乃與弟子百餘人共起朝儀、大朝會長樂宮。陳車騎旌旗兵衛、群臣列位、百官執職成禮而罷、莫不祇肅。於是上歎曰、吾乃今日知為皇帝之貴。拜通為奉常、賜金五百斤、弟子皆為郎中。
夏四月、行如洛陽。婁敬進計和匈奴、請以魯元公主妻單于、單于因之為女婿、有子則為外孫後世可以漸臣也。上將行之。呂后涕泣固請留之、乃止、更以宗室女為公主、妻單于、結和親、歳致金幣賂遺之。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)

何度目かの命の危機を乗り越えた劉邦長安で見たのは、蕭何が建設していた豪華な宮殿だった。


「まだまだ戦で大変なこの時期にしては少し豪華すぎる宮殿ぞなもし」と劉邦が文句を言うと、「豪華でないと威厳がありません。それに、後世にこれ以上付け足す事が無いようにしているのです」と答える蕭何。まあ、みすぼらしいと舐められるってのは分からないでもないが、実際には後世に新たに離宮とかを作ったりしているので、後半部分は少々怪しい。




そして、あの孔子こと孔丘先生の衣鉢を継ぐ叔孫通の登場。自分の精神を継ぐ者が朝廷の儀礼を定めるなんて、孔丘先生が聞いたら泣いて喜ぶのではなかろうか。


「俺にもできるようなのにしろよ」とオーダーする劉邦は、ちょっと情けなく見えるかもしれないが好判断とも言えるだろう。



匈奴の戦後処理が一段落。この話の通りなら、劉邦は趙王張敖(張耳の子)の后になっている娘魯元公主を離縁させてでも匈奴に送り込むつもりだった事になる。劉邦としては、この婚姻を足がかりにして匈奴を親漢とし、最終的には漢に取り込もう、などと考えたという事なのだろうが、流石に魯元公主の実母である呂后が許さなかった。


親戚の娘を皇帝の娘という事にして送り込むというのは、この後もしばしば用いられる策である。