『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その39

その38(https://t-s.hatenablog.com/entry/2018/12/24/000100)の続き。





羽下梁十餘城、聞曹咎破乃還。
羽於廣武間為高俎、置太公於其上曰、漢不急下、吾烹太公。王不聽。羽怒、欲殺太公。項伯曰、夫為天下者不顧其家。殺之無益、但益怨耳。羽從之。
使人謂曰、願與王挑戰、面決雌雄。王笑謝之曰、吾寧鬥智不鬥力。羽令壯士挑戰。漢使善射者樓煩射楚三人殺之。羽大怒、即自出、瞋目叱之。樓煩目不能視、手不能發、走還入壁。王使間問之、乃羽也。王大驚。
於是王與羽臨廣武間而語。王數羽曰、汝背約王我於蜀漢、其罪一也。矯殺卿子冠軍而自立、其罪二也。受命救趙、不還報命、擅劫諸侯入關、其罪三也。與懷王約入咸陽無暴掠、汝燒秦宮室、掘始皇廝、多取財寶、其罪四也。殺秦降王子嬰、其罪五也。詐坑秦卒二十萬、其罪六也。皆王諸侯善地、而徙逐其主、令臣下爭叛、其罪七也。出義帝于彭城而自都之、多自與己地、其罪八也。殺義帝於江南、其罪九也。夫為人臣自欲爭天下、大逆無道、其罪十也。吾以義兵誅殘賊、使刑餘罪人撃公、何苦乃與公挑戰。羽怒、伏弩射王、中胸。王乃捫足曰、虜中吾指。
王疾甚、入成皋。
中尉周昌為御史大夫
田橫請救于楚。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)

劉邦項羽の対峙。




このあたりは有名な話ばかりと言っていいだろうが、劉邦が数え上げた罪状はなかなか興味深い。



宋義(卿子冠軍)を殺した事や咸陽での暴虐ばかりでなく、趙を救った後に楚に戻って報告せずそのまま勝手に諸侯の兵を率いて進軍した事も含まれている。


宋義を殺すという異常事態があった以上は一旦は戻って命を待つべきだったという事、そして項羽もまた楚の一員であるから、他の諸侯の軍まで駆り立てて秦を攻めるのは独断ですべきではなかったという事。項羽のこのあたりの行動にはこういう問題点があったと考えられていたのではなかろうか。




漢王病創臥、張良彊請漢王起行勞軍以安士卒、毋令楚乗勝於漢。
(『史記』巻八、高祖本紀、高祖四年)

劉邦、矢を胸に受ける。十分大怪我だったように思うが、咄嗟に軽症を装っただけでなく、その後も軍中に姿を見せて兵をねぎらう事によって兵の動揺を抑えた。というか、張良がそうするように強いたのだという。張良つよい。



劉邦がここで死んでいたら、あるいは重症で起き上がる事も出来ず、そこに項羽が乗じてきたら。漢は一気に滅亡しないまでも天下を項羽と争う事など出来なかっただろう。



そこには運もあるが、これを文字通り命がけで回避した劉邦も相当なツワモノである。