沛国朱氏

(曹)真少與宗人曹遵・郷人朱讚並事太祖。遵・讚早亡、真愍之、乞分所食邑封遵・讚子。
(『三国志』巻九、曹真伝)


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晉宣帝河南司馬懿、字仲達。魏司空潁川陳群、字長文。中領軍譙朱鑠、字彦才。侍中濟陰呉質、字季重。右魏文帝四友。見『晉紀』。
陶淵明集『集聖賢群輔録』下)<<]



曹真の友人の朱讃、および曹真と対極の体形であったという朱鑠、この両名は共に曹操らの本貫である沛国譙の人であったようだ。




この「沛国の朱氏」であるが、それ以前に著名人などがいたかどうかを見てみたら、近い時代に一人見つかった。


李膺・荀翌・杜密・王暢・劉祐・魏朗・趙典・朱㝢為「八俊」。俊者、言人之英也。
・・・(中略)・・・
大長秋曹節因此諷有司奏捕前黨故司空虞放・太僕杜密・長樂少府李膺司隸校尉朱㝢・潁川太守巴肅・沛相荀翌・河内太守魏朗・山陽太守翟超・任城相劉儒・太尉掾范滂等百餘人、皆死獄中。
・・・(中略)・・・
朱㝢、沛人、與杜密等倶死獄中。
(『後漢書』列伝第五十七、党錮列伝)

後漢のいわゆる「党錮」によって死んだ人物の一人に、「八俊」の朱㝢という人物がいる。この人物も沛国の人であったようである*1





もちろん、これだけで朱讃・朱鑠・朱㝢が近しい血縁であると断言できるものではないが、後漢王朝から禁錮(官吏として任用されることを禁じられた)となっていた朱㝢の関係者が後漢末に曹氏に付き従っていたとしたら、なかなか興味深い話ではないか、と思う。

*1:もっと遡ると、曹操らと同じ沛国譙ではなく沛国蕭の人ではあるが後漢初期の功臣の一人朱浮という人物もいる。上記の人物たちとの関係は分からない。